Bonne journée

Bonne journée (36)

201502-012(Written only in Japanese)
通勤途中の幼稚園の壁をふと見ると「げんき、やさしい、すなお」と書いてある。原色を使った明るい色使いで大きな文字がコンクリートの冷たいグレーに踊り、恐らくはボールなどをぶつけたのだろう、ところどころ色が落ちた部分もある。当たり前のように見る言葉の列にこれまで気づいたことすらなかったが、きっと随分前からそう書いてあったのだろう。

その文字を見つけから、どういう訳か、それが気になり出した。ずっと気になっているのではない。ふと思い出すことがあるというだけである。そうして思いあたったのは、3つの言葉のズレだった。

人が社会で生きていく上で必要なこととして強さや優しさをあげることは多い。人生の教訓を語る怪しげな本はさも人生のすべてが分かったようにそれに触れ、プラトンは人間性の要素として分析してみせる。マキャベリはその容赦ない力と狡猾さを賛賞し慈悲を否定することで嫌われ、チャンドラーは優しくなければ生きていく資格がないと言う。元気で快活、周囲に優しくできる子供は、多くが認める「良い子」だろう。

だが、最後の「素直」とは何なのか。それも多くが認める重要な要素ではあろうが、前のふたつとは少し違う。「元気」で「優しい」ことは本人の資質や成長かも知れないが、「素直」は周囲からの視点ではないのか。いや、素直さは人の資質であることには間違いないが、どこかに周囲からの期待のようなものを感じるのである。人の言うことに素直に従う良い子、わがままを言わない良い子、従順な良い子、そんな感覚が見え隠れする。もちろん、そんな意図ではないだろう。他人の意見に耳を傾け、疑うことよりもまっすぐに信頼する純粋さのようなものかもしれないし、ありのままで飾り気のない素朴さのようなものかもしれない。

もし、この「素直」の意味が辞書の上位に出てくるように「従順」であるならば、「げんき、やさしい、すなお」は、すこしだけ違和感を感じざるをえない。フランスの高校生が若手労働者の権利の縮小に対してストライキを打つことができるのは、率直であっても従順とは限らない強い個人の教育があるからだろう。これから自己が確立していく就学前の子どもたちには、元気で優しいことで十分ではないのか。そう考えること自体がすでに偏見に満ちているということなのか。違和感はどこにあるのか。

201502-011

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