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A Book: マラケシュの声

201606-311This article was written only in Japanese.

「ここは異世界ですね。ガラス張りのタワーやコンクリートのオフィスビルがぽっかりと開いた穴に落ち込んでしまったようです。」
そう話しかけると、忙しそうにファイルを束ねていた手を休め、フロントの大柄な男は胡散臭そうな目を向けた。
「何か誤解されているようです。ここもまたパリに違いありません。いつでもパリは世界の先端にいました。鉄を組んだエッフェル塔も、サンラザール駅も、いつも先端だったのです。ここが他と違う理由はないのです。」
背にある壁に貼りつくように並べられた木枠にファイルを収め、ボールペンをカウンターのペン挿しから抜き出すと、フロント係はあらかじめカウンターに隠していたとでも言う様に地図を取り出しておもむろに丸を付けた。
「あなたは今ここにいます。どの観光客もが期待するパリはこの辺り一帯です。行き方は分かりますか?」
もちろんわかっている。モンパルナスに来るのは初めてではない。フランス西部への玄関口であり、観光地から少し外れたここは、ビジネスライクな街としての顔も持っている。
「それは結構。重厚な石の街がお望みならまだ時間はたっぷりあります。夏で良かった。あと2時間は明るいでしょう。もっとも、石の街はまだまだなくなりはしません。明日でも、来年でも大丈夫でしょう。あそこは時間を止めてしまった街ですから。」
ルーブルの地下に広がるショッピングモールはどうなのかと反論しかけたが、言葉は音にならなかった。それはどうでも良い事だった。フロント係の男には観光地の喧騒が好きになれないだけの事だろう。そう思いあたったのだ。誰にでも好きになれない場所はある。
「では、夕食がてら歩いてきます。」
そう言ってクロームの枠が斜光に反射して眩しいガラスの回転ドアに向かおうとした時、フロント係はもう次の仕事にとりかかっていた。回転ドアは、押そうとする前にすでに廻り出していた。
201606-312外に出てゆっくりと周囲を見渡すと、すぐ先のレストランの入り口には、メニューを書いたボードと、赤いテーブル3つと藤田嗣治の書いたような淡い茶色の猫が静かにあった。猫はテーブルの足の間に小さくなって、アールヌーボー風のデザインの一部を成していた。その藤田と夕食を共にするのも一興だとは思いながら、その近すぎる場所に腰を下ろす気にはなれなかった。せめて2ブロックくらい歩いてからでなければと義務感のように何かを感じていたのだった。レストランの先には19世紀のものと思われる石造りの街が見えていた。私は踵を返して、近代的なビルがそびえる駅へと歩き出した。すれ違ったムスリムの女性は、聞きなれない言葉で電話をしていた。

見知らぬ土地への憧れとわずかな躊躇が重なりあって旅は前に進んで行く。時にホテルのドアの隙間から差し込まれた招待状が、時にドアを開け瞬間に目を合わせた旅人のぎこちない挨拶が、異文化への出会いのきっかけとなる。そうした意味で旅行文学に分類されるのかもしれないが、それは同時に異空間にある自分を鏡で見る内省の部分を読者側に強制しているようでもある。単に異国を旅する憧れの部分だけでは説明しようのない、孤立感とも違った異質な自分がそこにある。異文化と思ったものは、そこでの日常であり、日常と思ったものこそがそこに紛れ込んだ異文化である。それが旅だろう。
読み出せば間違いなく旅に出たくなる。マラケシュの喧騒は、読後もいつまでも耳に残る。
いつものように、前半のストーリーは、感想代わりの自分なりのオマージュである。今回は実話ではないが、知人の言葉と実際のホテルでの会話とをミックスして再構成した。

最近読んだ本

マラケシュの声 ー ある旅のあとの断想 (法政大学出版局)
エリアス・カネッティ(Elias Canetti) 著、 岩田 行一 訳

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