Bonne journée

le carré (2)

201707-111

頰にまとわりつく湿った風は時に北からの硬い冷気と入れ替わり、すっきりとしない翌朝には再び柔らかな湿気を運ぶ。デスクワークで凝り固まった両肩に、どこか湿った重さを与え続ける重いジャケットが要らなくなった朝にシジュウカラがもう一度何かを思い出した。
翌週には片付けなければならない今日と、今日をやり過ごすための明日と、延々と続いた昨日のあとの今日が同じ時間を共有していた。もう、半年もからっぽのSNSには、色褪せることのないエッフェル塔の写真がずっとあった。もう見飽きたその写真は、それでもずっとそこにあった。あと5分で着く駅よりも、通勤電車で向かう仕事場よりも、エッフェル塔はずっと確かにそこにあった。昨日の夜、ベッドに体を投げ出しながら見た時から何も変わっていなければ、エッフェル塔は確かにそこにあるはずだった。確かめる必要はないと誰かがずっと頭の中でつぶやいていた。
「もう少しお待ちください。幸せはただいま準備中です。」
街中の掲示板もまた、視点の定まらない死んだような目でどこでもない場所に独り言を呟いていた。脚急ぐ誰もがそれに気づかず、今と此処の区別の付かなくなった都心の巡礼者はそれを見ようとはしなかった。黒板に書かれた文字は、かすれ落ちた黄色のチョークの粉とまだ低い日の光のオレンジに少しだけ曖昧に見えた。誰もが気づかず誰もが見ようとしない白っぽい文字に眼を向けるのはひとりだけなのかもしれないと思った。
何のためなのか理由は分からない。ただスマートフォンの背を黒板に向けて写真を撮ろうとした。作りものの嘘だらけのシャッター音が鳴るよりも早く、SNSがメッセージを告げた。
「電車止まってる。遅刻しそう。」
今日の会議はひとりになりそうだと思い、いつもと同じだと思い返した。会議室の中が薄暗くなり、プロジェクターのファンの音が気になりだした頃、顔は曖昧になった。
黒板にもう一度カメラを向け、朝の数秒がスマートフォンに吸い込まれる。初めて気づいた黒板のメッセージも、ルーティンワークのように繰り返す写真の行為の中でいつか過去となる。取り出すことも消し去る事も簡単なメッセージを写し取っただけの写真は、やがて見つけることすら難しいビットの羅列となってどこかに溜まった埃のように見ないものとなる。それが、世間が分かったかのように振る舞いたがる誰かが声を張り上げて言うテクノロジーなのだ。
黒板の写真を確かめ、スマートフォンをバッグの奥にしまい込んだ。
「いかれた本屋に用事?午後にならないと開かないよ。」
顔を上げると、黒板の向こうで一段高くなったウッドテラスから魚のような顔をした誰かが見ていた。色黒で細長い顔の下にはあまり手入れをしていそうにない髭がぼんやりとついていた。魚は丸テーブルのコーヒーをひと口飲んでからクロワッサンにかじりつき、再びコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「午後にならないと開かないんだよ。午前中は公園で本読んでるから。何探してるか知らないけど、昼過ぎにおいで。」
そう言われて黒板の文字が本屋の奥まった入り口への案内なのだと気づいた。そこに本屋があることはずっと分かっていたはずだったが、もう何年も記憶のどこかが欠けてしまったように意識すらしていなかった。もしかすると見ることまでも忘れていたのかもしれなかった。背の低い焦げ茶色の木塀と小さな椅子がほんの少し奥の緑色のドアへの道を知らせていた。錆びついた釘のように頑なに死んだドアが、石を埋め込んだコンクリートの道の向こう側で壁となり、穿たれた丸い磨りガラスの窓だけがわずかにドアの向こう側があることを知らせた。


le carré(ルカレ)の2回目。Cafe Everestを含む連作を意図しているのだが、いささか怪しいところが見え隠れしてしまっている。このため次回分は書き換え中。果たして意図するものができるのか、不安である。

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