le carré

201707-311

丘と呼ぶには大げさな少しばかり周囲より高くなったその場所の坂の上から見下ろす線路は、光があたって茶色く変色した印画紙にわずかに残された顔の輪郭をたどるように曖昧な線を描きながら、低地の向こう側の白茶けたビジネス街といくらか木の匂いのするこちら側の宅地とを隔てる境界となっていた。子午線が目に見えるものならそうだろうと思わせるような唐突なその線は、向こう側にある欺瞞を今ここにある気怠さから切り分けた。
シジュウカラの3度繰り返す甲高い声が頭のてっぺんから突き刺さり、SNSがブルブルと不平を漏らす。再び始まる今日。気怠さをあらわす傲慢な線。
昨日のうちに出来上がった薄茶色の報告書よりも端が折れ曲がった会議室のスクリーンが気になって仕方のない誰かが、今日の会議が無意味であることを淡々と告げたらどうだろうと坂の下の駅に向かってため息をつく。もう一度、ブルブルとバッグの中で何かが蠢いた。青がぢっと息を殺しながら溶けていった夜が、再びめぐってきた朝の喧騒を逃れるように、バッグの中で呟いていた。何かを取り出そうとは思わなかった。
「本日もご利用ありがとうございます。」
あとほんの少し坂を下ればすぐ先にある駅。まだ、ずっと前から、もう少し、駅はそこにあるだろう。誰もが線の向こう側に行くために吸い取られるように無言で向かう駅は、いつもと変わらない能天気さで言葉を覚えたばかりのインコのように同じ言葉を繰り返す。
「本日もご利用ありがとうございます。」
誰もが乗りたがってなどいないあなたのためにある電車が、どこまでも薄茶色に滲んでいく朝、言葉は繰り返される。
「では、失敗の原因について追記の上、再報告してください。」
誰もが無意味だと知っている。ただ言わないだけだ。言わなければただ薄茶色の時間が過ぎて、今日は昨日となる。ようやく歩き出した茶色の靴の向こうで雲が動き、境界線の薄茶色の縁取りはどこかで今日と明日をも区別しようとしていた。
「今日は朝一番で報告しなければ。」
頭の中で面倒なルーティンを反芻するのはいつからの癖なのかと思う。
ざわざわ、ザワザワ、ざわざわ。
ふと道路脇のアーモンドの木を見上げ、昨夜の強風に飛ばされたプラスチックバッグの湿ったにおいを思い出した。怠惰と気まぐれな風との間に置き去りにされた青いビニールのカケラは、シジュウカラが忙しくつつく花芯の下で微かに音を立てていた。
駅裏に向かう路地の狭い階段を下りながらスマートフォンをバッグから引き摺り出し、白く小さな点で描かれたメッセージを確かめる。いつも繰り返すルーティンは、いつもと同じエッフェル塔の写真だけが染み込んだガラス板の上で電車の遅延を知らせていた。

頰にまとわりつく湿った風は時に北からの硬い冷気と入れ替わり、すっきりとしない翌朝には再び柔らかな湿気を運ぶ。デスクワークで凝り固まった両肩に、どこか湿った重さを与え続ける重いジャケットが要らなくなった朝にシジュウカラがもう一度何かを思い出した。
翌週には片付けなければならない今日と、今日をやり過ごすための明日と、延々と続いた昨日のあとの今日が同じ時間を共有していた。もう、半年もからっぽのSNSには、色褪せることのないエッフェル塔の写真がずっとあった。もう見飽きたその写真は、それでもずっとそこにあった。あと5分で着く駅よりも、通勤電車で向かう仕事場よりも、エッフェル塔はずっと確かにそこにあった。昨日の夜、ベッドに体を投げ出しながら見た時から何も変わっていなければ、エッフェル塔は確かにそこにあるはずだった。確かめる必要はないと誰かがずっと頭の中でつぶやいていた。
「もう少しお待ちください。幸せはただいま準備中です。」
街中の掲示板もまた、視点の定まらない死んだような目でどこでもない場所に独り言を呟いていた。脚急ぐ誰もがそれに気づかず、今と此処の区別の付かなくなった都心の巡礼者はそれを見ようとはしなかった。黒板に書かれた文字は、かすれ落ちた黄色のチョークの粉とまだ低い日の光のオレンジに少しだけ曖昧に見えた。誰もが気づかず誰もが見ようとしない白っぽい文字に眼を向けるのはひとりだけなのかもしれないと思った。
何のためなのか理由は分からない。ただスマートフォンの背を黒板に向けて写真を撮ろうとした。作りものの嘘だらけのシャッター音が鳴るよりも早く、SNSがメッセージを告げた。
「電車止まってる。遅刻しそう。」
今日の会議はひとりになりそうだと思い、いつもと同じだと思い返した。会議室の中が薄暗くなり、プロジェクターのファンの音が気になりだした頃、顔は曖昧になった。
黒板にもう一度カメラを向け、朝の数秒がスマートフォンに吸い込まれる。初めて気づいた黒板のメッセージも、ルーティンワークのように繰り返す写真の行為の中でいつか過去となる。取り出すことも消し去る事も簡単なメッセージを写し取っただけの写真は、やがて見つけることすら難しいビットの羅列となってどこかに溜まった埃のように見ないものとなる。それが、世間が分かったかのように振る舞いたがる誰かが声を張り上げて言うテクノロジーなのだ。
黒板の写真を確かめ、スマートフォンをバッグの奥にしまい込んだ。
「いかれた本屋に用事?午後にならないと開かないよ。」
顔を上げると、黒板の向こうで一段高くなったウッドテラスから魚のような顔をした誰かが見ていた。色黒で細長い顔の下にはあまり手入れをしていそうにない髭がぼんやりとついていた。魚は丸テーブルのコーヒーをひと口飲んでからクロワッサンにかじりつき、再びコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「午後にならないと開かないんだよ。午前中は公園で本読んでるから。何探してるか知らないけど、昼過ぎにおいで。」
そう言われて黒板の文字が本屋の奥まった入り口への案内なのだと気づいた。そこに本屋があることはずっと分かっていたはずだったが、もう何年も記憶のどこかが欠けてしまったように意識すらしていなかった。もしかすると見ることまでも忘れていたのかもしれなかった。背の低い焦げ茶色の木塀と小さな椅子がほんの少し奥の緑色のドアへの道を知らせていた。錆びついた釘のように頑なに死んだドアが、石を埋め込んだコンクリートの道の向こう側で壁となり、穿たれた丸い磨りガラスの窓だけがわずかにドアの向こう側があることを知らせた。

「写真撮ってたから本屋の時間でもメモしてるのかと思ったよ。こんな朝早くに本屋に用はないよなぁ。」魚は半分になったクロワッサンにかじりついた。「コーヒー飲んでくか?フランスのカフェと同じだ。クロワッサンならある。」
スマートフォンがまたバッグの奥でモゴモゴと何かを告げた。取り出そうと右肩にかけたバッグに顔を向けて、本屋の名前を思い出した。”librairie le carré” 四角という名の本屋。かつてSNSで送られてきた写真のレストランと同じ名前。どこかはわからない。ただパリの郊外とだけ。郊外であろうが、バスティーユであろうがサンジェルマンデプレだろうがどれでも同じだった。ただはるか遠いどこか。スマートフォンを包む両手の指先の隙間から文字がこぼれ落ち、ガラス板の上のみせかけのレストランテーブルはくすんだ茶色に霞んでいた。棚に置かれた陶器のねじれた花瓶と黒檀のように沈み込む象の置物が場違いに見えた。

広げた透明のうしろ翅に
夏を探して伸びる葉脈の影
振動する空気と見えない羽音
はっきりしない陽光に割り込む
他人の手と着信音
どこかに隠れる赤茶けた虫

四角という名の本屋の黒板にくくりつけられた小箱には、誰かが放り込んだ名刺大のカードが朝露に歪んでねじ曲がっていた。朝露が染み込んでグレーの縁取りとなった白い平面のその中にアリのような小さな丸いブルーの文字で書き込まれたメッセージには、イリスとあった。きっと名前だろうと思った。レストランの写真と同じ。ただ入り口にle carréと書かれていたからきっとそのレストランの名前なのだろうと。そうやってそのレストランは「四角」となってずっとガラス板の奥に沈みこんだ。
「電車はしばらく動かないよ。コーヒーでも飲んできなよ。」
魚がカップを持った手で駅の方を示す。無理にでも仕事に向かおうとしている自分が遠く見えた。
「フランス好きでしょう?ビグダンの女の子のチャーム着けてるんだから。あいにくキャラメルはないけど。クロワッサンならある。」
四角という名の本屋の横にある木の階段は、クリーム色のペンキが剥げた灰色の道標に見えた。何年も誰かを案内し続けた道標は、ガラス板の中に折りたたまれた地図を誰かが広げるたび、クリーム色の皮膚を少しづつ剥がし、やがて朝の街に倒されたのだ。その倒された道標が示していた行き先は、今はもう誰もが気に留めなくなったどこかであって、そのどこか分からない行き先に何人たどり着いたかなど誰も考えることもない。クリーム色の皮膚とともにその行き先を告げた文字は、そうやって街の片隅に吹き溜まったかけらの一部となったに違いない。コーヒーの甘い香りがほのかにした。右足の先をクリーム色の木片にかけてテラスを見上げた。ビグダンが何か知らないと思い出した。
茶色の革の靴先が階段にの上で歪む頃、再びSNSが何かを呟いた。フランスからのメッセージ。深夜0時。
「マスター、コーヒーとパン」どこからか誰かが空に向かって声を上げた。
「パンじゃないって言ってるだろう。」そう応えながら空のコーヒーカップを持って腰を上げた主人は、半身だけ振り返りながら小声で続ける。「きっとあんたの方がマシだと思ったんだけどね。」
客は慣れたように角のテーブルに座り、頭だけがプランターの向こうで揺れていた。
「電車止まったんだから朝のパンくらい食べてってもいいよね。」
遠くで顔の無い誰かがつぶやき、その言い訳は、カラカラと音をたてて転がった。
「電車止まらなくたって食べていいんだ。ただ、あんたがいつも食べてるのはクロワッサンでパンじゃない。」
半分階段にかけた足をアスファルトに戻し、プロジェクターに映る説明資料を思い出した。まだ映し出したことのないスライドが鮮明に思い浮かんだ。ただ、そのスライドの右隅には見慣れたエッフェル塔があった。
「マスター、クロワッサン。」
会社には遅れるとメッセージを送らなければ。たぶん。
斜めの日差しがビルの隙間にある緑色のウッドテラスの半分を音もなく照らし始めていた。
ガラス板の向こうには動かなくなったコガネムシが黒く光っていた。

 

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