Cafe Everest

201612-424

夕暮れの重いバッグを肩にかけ直しながら、疲れた足を放り出し、いつものカフェのサインにぼんやりと目をやり、会議のやりとりを思い返していた。
プロジェクターが映し出す光の紋様はただオレンジに輝くだけで、意味のある解を伝えはしなかった。たったひとつ意味のある言葉といえば、「もう一度考え直そうか」という俯いたしゃがれ声だけだった。どんな価値があるのか分からないとか、言葉の意味がわからないとか、そんな言葉が小さな部屋の中でぶつかり、やがて過ぎた時間を確かめるためだけに議事録が発行された。
遠いカフェのサインボードは、プロジェクターと同じオレンジの光を反射していた。欺瞞と傲慢の間で言葉は色彩を失い、やがてこぼれ落ちた。
「ここは入り口ではありません。あなたはここから入りません。」
エベレスト・カフェという名の店のオレンジ色に照らされたガラスのドアに鍵は見当たらなかったが、それが開くことはなかった。
「このドアは開きません。朝日の照らす側からお入りください。運を忘れずに。」
二重になった奥のガラスドアには、念を押すようにさらにもう一枚張り紙があった。眺めるドアは、どこかで今日を拒絶しているように見えた。
いつも何かが起こり、いつも何事もなかったように夕暮れが訪れる。会議の議事録は、恐らくは二度と開かれない。ただの冷え切ったデータ。昨日と今日の違いは単にファイルがひとつ増えたことだけに違いない。
「上まで階段を登るとあなたは入り口を見つけます。あなたは入りません。」
前にあった張り紙はいつか分からなくなっていた。バッグを肩にかけ直し、少し汗をかいたシャツの襟を整える。オレンジ色の光を反射するドアの向こうには、確かにコンクリートの階段があった。毎日前を通り毎日見ていたドアは、一度も開けようとしたことなどなかったと気づいた。
階段の一番下には年端のいかない少年がひとり、アイスクリームを食べながら誰かを待っていた。夕暮れと言うには少し遅くなった一日の終わりに、オレンジ色の明かりに照らされたドアと冷たい青の階段との隙間から腕に巻きついた時計とは違う時間が浸み出し、拒絶された何かがわずかに動き出したように思えた。階段を見上げると、ハロウィンの飾りが風に揺れた。
起こってしまったことも、もう忘れそうなことも、これからおこりそうなことも、すべてバッグの中にしまいこんで持ち歩いていた。
遠く階段の先に行くべき場所があった。踏み出す足、少しだけ冷たい風。凍りついたように音のない階段にかかとの音がコツンと鳴ったような気がして、足元のアスファルトを急いで覗き込み、何もない事に居心地の悪さを感じた。
一段と暗くなった夕暮れに所在が分からなくなった貼り紙のように、誰かを待つ少年もまた見えなくなった。見にくくなったプロジェクタの資料を少しでも見てもらおうと部屋の明かりを落とした瞬間から、伝えようとした相手の表情が無くなった会議室と同じだった。
「コトラーは知っているか?」
もちろん知っている。だが、知っていることにどんな意味があるのかはわからない、そう頭のてっぺんで思った。やがて会議室は曖昧な蒼の深みとなった。階段をひとつ登る。コツンと冷たい音。果たして向かおうとしている先がエベレスト・カフェなのか、別な場所なのか、それすらはっきりしなかった。ただ一度も入ったことのないそこで、コーヒーを飲みながら今日と明日の境界線をなぞりたいとだけ思っていた。また、コツンと音がした。
少し長い階段を上がった先には、思いがけずエベレストカフェのオレンジ色のサインが階段の手すりを照らしていた。明日はまた報告書を直さなければと、誰かが頭の中で囁いた。
ドアを開ける。ガラスのドアに張り付いた木のドアノブは、触れるとプラスチックの手触りがした。
「こんばんは。ひとりだけですか?好きな場所へどうぞ。」
少したどたどしいイントネーションでカフェの店員が出迎えた。ネパールの民族衣裳なのか判断できるだけの知識はなかったが、ビビッドな色の中にこちらを向く笑顔にそんな気がした。
「ドアは壊れました。あなたは入りません。エレベーターごめんなさい。」
近くのテーブル席の安っぽい椅子に身を委ねながら、肩にかけた重いバッグを隣の席に置き、立てかけられたプラスチックのメニューに手を伸ばす。
コーヒーをひとつ。ろくに見もせずそう告げて、メニューを裏返した。裏には小さな茶色の文字が無造作に引かれた青い矩形に囲まれていた。

大気の重みに両肩は耐えきれず、
宇宙どころか街角の空間に矮小化されながら、
あなたはゾウに踏みつけられた蟻となる。

踏みつけられながら、
ビルの空気をかろうじて循環させるコンプレッサーが
ブツブツと不平を言うのを聞いている。

かろうじて難を逃れた他の蟻は、
嘲笑っているわけでもない。
無言で空気を吸って吐いているだけだ。

「それはね、お客さんが書いた。私は意味がわからない。」
店員は遠くからそう話しかけてきた。
遠い未だ見ぬインドの記憶。やがてゾウはその古代遺跡のように輝く足を上げる。何ひとつ変わらない大気と光。想像だけのインドが象の影となって天井に照らされていた。
「出身はネパール?それともインド?」
言葉が放たれると同時にどうでもよい質問のような気がした。出会ったばかりの店員は、明日になれば単なる記号でしかない。コーヒーを頼んで支払いするだけの記号。石壁に描かれた引っ掻いたような落書きの線と大差ない記号。その記号に出身地は不要なのだ。
「ネパールですよ。おかあさんがね。どうしてインド?インドは関係ない。」
プラスチックのメニューの裏に書かれたゾウにインドを思ったのは、身勝手な想像だと言われたような気がした。象は鼻を持ち上げてから向こうを向いた。
「仕事の帰り?お腹空くでしょ。ネパール料理あるよ。」
コーヒーをテーブルにゆっくりと置きながら、店員は再び笑顔を見せた。どうということのない花柄のカップの向こう側で引っかいたような傷がオレンジ色の明かりに照らされ、誰の重みも受け取らない向かい側の椅子は、奥のガラス窓の影で冷たくなっている。茶色の皮のバッグに穿たれた皺は、もはや光の反射の揺らぎと区別がつかなかった。明日もまた繰り返すはずの時間がどこかで溢れ始めた。
ネパール料理なんて食べたことがない。そもそもどんなものかわからない。だったら試してみろと頭の中で誰かが告げていた。
バッグの奥にしまい込んだ何かを取り出そうと、誰もいない椅子から茶色に歪んだそれを手繰り寄せ、明日の通勤電車の湿った吊り革を思い、取り出すものなどないと思い出した。
限りなく細く研ぎ澄まされたブラッドオレンジの月が、ガラスに刻まれた空間の向こう側でコンクリートの間隙へと沈み込もうとしていた。断絶された煤けた時刻は、凍りついた沈黙の中で微かに鼓動するだけだった。もう長い間、月をじっくり眺めたことなどない。急ぎ足で駅に向かい、滑り込んできた電車のドアに考える余裕もなく吸い込まれ、ようやくつり革を確保するとスマートフォンでメッセージを確認する。そうやって始まった1日は、ビルの明かりに照らされた谷間を小走りに駅に向かう事で、ようやく終わりにたどり着いた。仕事の仲間とあれほど楽しそうに話しても、一度ビルを出ればすれ違う夜の人影と対して違いはなかった。
「ネパール料理ってどんなのが?」
そう言いかけて、目をコーヒーに戻し、出かかった言葉はどこかに霧散した。印刷したばかりの新聞に湿ったインクの匂いがまだ残っているように、時間だけが過ぎた会議室を後にしてもプロジェクターの埃が焼けるような匂いが鼻に残った。新しいことで胃を満たすのは次にしようと思った。向かいの椅子の上のバッグの中で、スマートフォンが小さく唸るのが聞こえた。
エベレスト・カフェのスピーカーからはジャズが流れ、片隅の観葉植物はエベレストとは無縁な熱帯の青々としたシダ植物を思わせた。飾り棚には木彫りの猿と象。そして様々な色の布。あらゆるものがこの小さなガラスの箱の中で場所を奪い合っている。そのひとつに自分が加わったのだった。壊れそうなキースジャレットのピアノが背中の方で冷たく舞った。灰色のダクトから押し出された空調の風が赤と黄色と緑の布を揺らし、その隣でありもしないどこかに向かってすっと広がった植物の葉が震えた。
「食べなければ、美味しくないのがわからない。運がなければ、美味しいのがわからない。」
店員がピアノを押しのけるように写真を差し出した。写真の横には小さな捻じ曲がった黒い文字でモモとあった。食べてみなければその美味しさはわからないのだと言いたいに違いない。そう思ったが、言葉を訂正するのはやめた。そんな必要はなかった。代わりに聞く。

「あの壁の棚にある象の置物は何?」
「木の象。お客さんのお土産。」
「インドの旅行のお土産?」
「インドは関係ない。」
「どこのお土産?」
「フランス。」
「そう。」

木を彫った象は天井のLEDライトを反射して黒く輝き、手作業の不規則な削り溝と光沢のある面がさざなみを作っていた。象はまたも鼻を持ち上げてから向こうを向いた。再びバッグの底に押し込められたスマートフォンが小さな呻き声をあげた。
別なプロジェクトの進み具合を話しながら会議室を後にする参加者の背中が視界から消えると、そこには空調の騒音が残された。小さなハム音の中にかすかに金属音が混じるそのノイズは、どこか長時間乗った飛行機の騒音に似ていると思った。テーブルの上のスマートフォンが鳴り、誰かが明日の会議の延期を告げた。オフにしたプロジェクターが冷却のためにファンを回し続ける。そのいつ終わるかわからない冷却を待ちながら、もう半年も会っていない友人の顔を思い出した時、生暖かい埃を吐き出すファンの音は唐突に終わりを告げた。
「木彫りの象がフランスのお土産なの?」
店員は答える前に頼んでもいない写真にあった料理の皿を差し出した。
「疲れてる。少しだけサービス。あなたは運がある。」
テーブルの上でネパールがこちらを見ていた。ふと、ネパールの旗がどんなだったか想像も出来ないことに気付いた。風景すら思い付かなかった。
両手のひらを広げてできるだけ多くをすくい取ろうと、じっと息を凝らしながら降りそそぐ雨粒を受け止め、やがて指の隙間から溢れる雨の多さに指を固くする。それでもわずかにしか雨は手に残らない。パウルクレーの描く線のように行為は単純化され、プロコフィエフの紡ぐ音のように牧歌的な繰り返しとなる。そうやって、時計の針が止まることなく回り続けるのを受け止めることができた。ネパールの山々から吹き下ろす冷たい風は、頭の中で断片化されたジグソーパズルのピースをかき集めた想像でしかなかった。手のひらに残された雨粒と同じだった。自分がどのドアの前に立っているのかすら分かっていないと、知らない誰かに言われたような気がした。ただドアの前に立って、無言で空気を吸って吐いているだけなのかもしれなかった。フランス土産の木彫りの像はまだ壁の飾り棚にあった。

時は過ぎるのではなく、
いつも同じように繰り返し刻まれるもの。
時は流れるのではなく、
いつも同じ方向に繰り返し過ぎ行くもの。
昨日と今日を分け隔てるカフェのテーブルは、今そこで目に見えないほどのかすかな傷として新たな時を刻み、
プロジェクターが放つ光子の放列は、ハードディスクの上の磁気のゆらぎとして今日の証を刻む。
遠くどこかで上げられた象の足は、次に下ろされた大地にわずかな足跡を残し、
時と場所を隔ててキースジャレットのピアノと共に、カフェの汚れた空気を震わせる。
テーブルの傷は、やがて次の汚れに紛れ、
ハードディスクの磁気はやがて明日の議事録共にどこにもない場所に押し込まれる。
繰り返し刻まれる時の風化。繰り返し過ぎ行く時の記憶。なんども繰り返し過ぎた時間だけが象の歩む道のように現れる。

見慣れないネパール料理をひとくちだけ味わい、バッグの奥のスマートフォンを探し出し、象の置物に目をやって、明日の乾いた空気を吸い込んだ。
LEDが反射するガラスの板には、無数の指紋ともう3週間待っていたメールの2行の欠けらがあった。23時の便でこぼれ続ける明日を拾いにパリ行くと。ナポレオンが過ぎた門もガラスと鉄の屋根もジュラルミンの羽音も、いつまでもセピア色が街を覆い続けるのが慣わし。余所者がそのセピア色を塗り替えるのもまた慣わし。進んでいるのか留まっているのか分からなくなったパリの仕事のパートナーへの愚痴は、9か月続いたある日の夜に急によそよそしく違う話題へと変わり、やがて黙りこくった3週間が訪れた。しばらく連絡できないと。スマートフォンをバッグの底に隠すようにしまい込み、少し冷えたコーヒーを自分のどこかにあるはずの胃に押し込んだ。
会計を済ませ、冷たい夜への出口をこじ開けると、足元に貼り紙が落ちた。「あなたはここから入りません。」確かにそうあった。今日と明日の境界線は象の足跡のように曖昧にぼんやりと消えつつあった。

201612-422

2 thoughts on “Cafe Everest”

    1. ありがとうございます。どうしてもひとりよがりになってしまいますので、コメントは励みになります。

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