Bonne journée, Photo

50mm, f/1.8

201805-311
Strolling into an early-summer forest

旅先で写真を撮るなら24mm前後(APS-Cなら16mm)あたりが一番使いやすい。テーブルの食事や部屋の様子もしっかり収まるし、広大な風景にはもちろん強い。薔薇を撮るのもマクロで花だけをクローズアップするより、クローズアップした薔薇の華やかさの向こうに緑や澄んだ青空が見えたほうが広がりが出る。だから広角を持ち歩く。
ところがである。ファインダを覗いていると、50mmの画角(APS-Cなら35mm)で見たくなる。ズームレンズを付けていても50mmはやたらと多い。50mmはやめられない。だれか理由を教えてくれないものだろうか。

 

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Bonne journée, Photo

irregular post/weather

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ようやくグレーの雲は見当たらなくなったものの、まだ風の唸り声が時折激しく壁の向こうに響いている。ヒルガオはひと月早く咲き始め、バラはすでに満開を過ぎるころ。今週は、Blogの更新もいつもと違うスケジュール。

 

Bonne journée, Cross Cultural

Korea, US and then

201804-511

それが紛れもなく人の作った機械であることを主張する様にランディング・ギアがゴトゴトと低く鈍い音をたてながら真っ直ぐな胴の下に突き出される頃、恐らくは着陸時の注意事項を韓国語でアナウンスしていたキャビンアテンダントが、シンプルだが明確な英語で注意を促す。この空港は写真撮影が禁止されており、撮影すれば逮捕されることもあり得ると。窓の外には冬枯れの森といくつにもコピーされたコンクリートのアパートが繰り返し連なる生活感のない大地が、地滑りでも起こしたように傾きながら飛び去り、隣の名も知らないビジネスマンが、落ち着かない様子で背もたれのポケットのハングルで書かれた冊子を取り出してはしまい込む。小さな子供の甲高い鳴き声がひとつ。そうやってふと着陸した機体は大急ぎで速度を落とし、今まですっかり忘れていたとでも言うように、地上にある全てが実物大のものへと引き戻される。タクシングする機体の小さな窓から夕暮れの柔らかなオレンジ色に包まれるその実物大の風景をぼんやりと眺め、明日の仕事を考える。
そうやって天空の曖昧な空間から地上の現実に戻る時、視界の片隅を通り過ぎるカマボコ型の構造物と尖った戦闘機に我にかえるのだ。そもそもこの国はまだ戦争中なのだと。平和そうに見える街の表情に何ら嘘はない。いたって平和なゆったりとした時間の過ぎる夕暮れは、誰もが等しく享受する安心に満ちたひと時であり、その中を轟音を立てて飛び立つ戦闘機に現実味などこれっぽっちも感じない。それでもなお、隣国とは休戦しているだけであって、若者は誰もが兵役に就く。1月、オリンピックに向けて平和ムードが漂う韓国は、平和への期待と長い時が産む反目とのジレンマが内と外にある隣国だった。

それから3ヶ月、どこまでも青く透明な空に落ちていきそうなカリフォルニアにいて、冬季オリンピックのことなどすっかり忘れ軽快な音楽とともに夕日を楽しみながら、韓国系アメリカ人と仕事の話をしていた。サーフボードを抱えすっかりオレンジ色になった波打ち際を車に戻るサーファーには、海を隔てたその先にある国にまで思いを巡らすこともないだろう。まして、それを遠くから眺める自分にも、3ヶ月前の戦闘機など思い出す理由などなかった。それでもその数日前、降り立った空港から仕事への移動の最中、グレーの無機質な塊が港に静かにあることを目の当たりにして、未だ解決していない国際問題が他人事のようにそこにあることを知ったことを思い出した。空母は、まちの風景とは無関係にそこにあった。
時は目まぐるしく過ぎて行く。国境線を跨ぐことに誰も関心を持たない日はいつ来るのか。

201804-512

Bonne journée, Cross Cultural

on the road again

201804-311

Cela rend modeste de voyager. on voit quelle petite place on occupe dans le monde.
Travel makes one modest. You see what a tiny place you occupy in the world.
旅では誰しもが謙虚になる。この世界のほんの僅かな場所にしか自分がないことを旅で見るからだ。
– Gustave Flaubert グスタフ・フロベール

I’m on the road again to California, such a lovely place, such a lonely place.
ふたたびカリフォルニアへの旅の途中。魅力的な乾いた青と寂しさが同居する場所へ。

 

Bonne journée, Photo

Garden City

201804-111

ガーデンシティという言い方がある。ハワードが提唱した計画都市の概念を指す言葉であり、田園調布はまさにそんな街なのだが、それとは別に、公園のような緑の街を(日本語では)広くそう呼んでいる。カナダのビクトリアはその代表例でありカナダ旅行のパンフレットを見れば必ず写真が載っている。海を挟んで反対側のバンクーバーもまた公園のような街であり、花にあふれた都会の風景をゆっくりと歩けば、いつのまにか海と緑の公園に入り込む。特にスタンレーパークは旅行者にとっても人気の場所となっている。
横浜はそのバンクーバーの姉妹都市である。昔からの観光地でもある山下公園や港の見える丘公園はもちろん、関内周辺もヨーロッパのような石の街並みと大きな木が続き、晴れた日の散歩はことのほか気持ちが良い。このあたりのエリアは4月が特にお気に入りである。桜並木は桜木町に任せ、どちらかといえば新緑とチューリップを楽しむのが良い。プロ野球の開幕シーズンという事もあって、試合のある日はブルーに染まるが、普段は近所の人の犬の散歩コースだったりする。

今、横浜では昨年に続き「ガーデンネックレス」というイベント中である。これまでのチューリップ祭りと何が違うのかという疑問はさておき、いつも以上に花にあふれた横浜公園と日本大通りが、どこまでも横浜らしい風景を演出している。さらに、Greater Yokohamaとでも呼べそうな郊外にあるズーラシアの隣にも、里山ガーデンなる会場に巨大な花壇が用意されている。晴れた日にゆっくりと散歩する場所には事欠かない。これからバラの季節まで、どこに行くかではなく、どうやって時間を作るかが悩みどころである。

201804-116

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Cucina Italiana Antonio?

201803-411

先日信号待ちでふと横を見たら、素っ気ないコンクリート打ちっぱなしの壁に文字だけがお店の名前を示すちょっと小ぶりなレストランがあることに気がついた。小雨だったこともあってか、都心のおしゃれなレストランの雰囲気というよりは、地方の街中で昔から続いている地元のレストランというイメージに見えたが、むしろその潔いシンプルさがちょっと古くささがある外観を美しく見せていた。店の名前は Cucina Italiana Antonio、アントニオのイタリアンキッチンである。普通の名前ではあるが、これを見て時々仕事で行くフランスのことを思い出した。
和食、とくに寿司屋は、今や世界中でごく普通のレストランとなったから、街中に行けば多くの和食屋に出くわす事になる。大抵はわざわざフランスで和食を食べようとは思わないから気にする事もないが、その名前がわかりやすくて面白い。Sushi Tokyoのような大袈裟な名前を見かけることすらある。Sushi Tsukiji くらいのほうがまだリアリティがあると言うものである。そう考えると、先ほどのイタリアンは、さしずめ「日本食堂 邦夫(くにお)」と言うことになる。あまり味は期待できそうにない。日本びいきで日本食レストランによく行くフランス人に言わせれば、「この手の名前はまれに大変美味しいこともあるが、ハズレも多い。」だそうである。

正確な事を言えば、レストランの名前は実はアントニオではない。ここには典型的なイタリア人の名前がはいっていたが、念のため別な名前に差し替えさせていただいた。ついでに言えば、邦夫としたのもなんとなくAntonioと語感が似ているからであって、他意はない。この手の話は難しい。ということで、iPhoneに残ったフランスの写真やイタリアンの写真ではなく、春らしい花の写真が冒頭にある。