Bonne journée, Cross Cultural

in-flight meals

201802-311

実はANAの機内食にがっかりしている。ネガティヴなことはここには書かないことにしているのだが、どうにも適切な表現が見つからない。批判したい訳ではまったくない。

機内食など食べられれば良いという指摘もあろうかと思う。あの制約の中で暖かいものが出てくるだけラッキーで、味などはなから期待してもいないし、安く移動できればそれで良いと同僚は言う。美味しくなりましたと宣伝する航空会社に対して、にべもない。先のANAは、そうやって一所懸命美味しい機内食を提供している航空会社のひとつである。
先日もウェブを眺めていて、ANAの機内食の記事に行きあたった。その記事のとおり、エコノミークラスでもこれだけ楽しめれば嬉しいと頭の中の理性的な優等生がささやくが、一方で本音がこうも言う。あまり食べたくないな。

9時間を超える長距離便は、どうしても食事をせざるを得ない。飲み物だけで過ごすには少々遠い。だから、フライト直前に何かを食べることにしている。機内食に食欲がわかなくても、少し胃に入ってさえいれば好きなものだけを食べれば良い。このところのフライトでは、機内食を食べたり食べなかったりである。正直、特段美味しいわけでもない機内食だから、フライト前に少しでも食べておいて、機内食は食べたいものだけを選んで食べるようにしているのである。先日利用したアシアナ航空(上の写真)は僅か2時間のフライトに少なめながら暖かい食事が供されて驚いたが、フライト前に軽く食べていたので、結果的にちょうど良い食事ができた。

さて、機内食が美味しくないと感じるのは気圧のせいだという指摘もある。だが、ANAの場合は、個人的には食事の内容が合わないからだと感じている。くだんの記事では海の幸丼かカレーが選べるとある。前回の長距離では、シーフードドリアだったかとカレーだったと記憶している。まるでコンビニ弁当である。その上、喉の奥にスパイスの風味が残るカレーを10時間も拘束されるフライトの最初に食べたくはない。結局、サラダのような冷たいものを食べて終わりである。ひょっとして、会議室で試食してOKを出しているのではないかとため息をついたりする。

201802-312そんな機内食がだめだと言っている訳ではない。ネガティヴに見えてしまうが、それは私の文章を書く能力が足りないだけだ。嫌いなものを避けても少しは食べられるバリエーションもあるし、見た目も悪くない。塩と胡椒の省略に日々の工夫を感じるし、多くの人が無難に食べられるであろう味付けにもなっている。塩気とアミノ酸が少々強すぎるコンビニの味を感じるのは、その工夫の結果なのだろう。だが、そんな味を食べたくはない。

デザートも然りである。ANAのエコノミークラスでは、食事の後にハーゲンダッツのミニカップが供される。多くの人にとって嬉しいデザートである。でも、これがまた時に食べたくない代物となる。困って受け取らないこともしばしばだ。出てくるアイスクリームは、例外なくコンクリートのように固まっている。プラスチックのスプーンでは到底歯が立たない。美味しく食べたかったら30分ほど待ったほうが良い。ところが、食べやすくなった頃にはコーヒーはない。結局、片付けで忙しくしている客室乗務員にコーヒーを頼むことになる。なんだか、ゆっくりとできないのである。コーヒーなど飲まなければ良いのだろうが、後に残るミルクの甘みがどうしても好きになれないし、まわりを見ればとっくに食事は終わっている。結局は、アイスクリームを断ってしまうのが一番簡単ということになる。

まぁ、ビジネスクラスにすれば良いのだろう。食べたい時に食事が出来るし、少しは味も良い。もっとも、ビジネスクラスではゆったりとしたシートでほとんど寝ている訳で、あまり食事を楽しみにする理由はない。何年か前のパリから東京への帰りでは、よほど疲れていたのか飛びたって程なく眠りにつき、気がついた時にはもはや日本海が目の前だったくらいである。とは言え、そもそもビジネスクラスの料金をプライベートで払えるほど金銭的な余裕はない。コストにシビアな仕事でもなかなか使えるものでもない。どの辺りが「ビジネス」なのかと愚痴も言いたくなる。

食べ残した機内食もアイスクリームももったいない。事前予約制にならないかなと思う。それってLCCか。でもシートピッチは譲れない。

 

 

 

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Bonne journée, Cross Cultural

South Korea

201802-112

ユニクロの明るくカラフルな店舗の前を重い荷物を背負ってゆっくりと進みながら、ふと今日は暖かいなと思い返した。視線の先を横切る涼しげな顔立ちのカップルは、モノトーンの上下にコートの前を開け、何かを笑顔で話しながら颯爽と立ち去った。ショッピングモールの入口近くにある黒を基調にブラスで飾ったパン屋あたりで、きっとお洒落なサンドイッチでも買うのだろうと勝手な想像を膨らませ、背中の重さから解放してくれる近くのベンチを探す。目隠しを兼ねた植込みの向こうに見つけたステンレスのそれは、すぐに腰の曲がった女性のものとなった。レストラン街でもあればそこで休憩しようと辺りを見渡した。見わたせばいつもと変わらない風景がそこにあった。ただひとつ違うのは、書かれた文字が何ひとつ読めないことだけだった。行き先を示す案内板には、ハングル文字が書かれていた。

空港のエスカレーターは韓国語に続いて中国語と日本語が安全を喚起し、案内板にはカタカナが併記されていたが、ひとたび空港を離れれば右も左もハングルだった。表音文字なのだからしっかり勉強してくればよかったと少しだけ後悔し、すぐに読めても意味がないことに気がついた。右の矢印と左の矢印から、左右に行くと何かがあるのだとはわかっても、そこに書かれたハングルの音からはそれが何か分からない。全てが文字化けしたような、そんな気分を味わうこととなった。風景は見慣れているのに、文字だけが分からないのだった。よほどフランスのほうが楽だった。分からなくても英語と似た単語であれば、それなりに意味は想像できる。しかし、ハングルには何ひとつ想像できる要素がなかった。だから自分の頭がおかしくなったと思う方がかえって自然に思われた。見慣れた日本の風景なのに、ただ文字だけが読めなくなったのだ。あえてひとつだけ違うとすれば、ユニクロがひとけた値段の高い高級品に見えたことだけだ。29,000-のブラウスは、やけにオシャレに輝いていた。もちろん単位はウォンである。

201802-111

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

2018

201712-521

年末に新年の挨拶をするようになって何年にもなる。朝の短い自由を新聞を広げて楽しむサラリーマンを横目で見ながら、トミー・フラナガンのピアノを聴きつつゆったりと過ごす通勤電車の中で、そんなことをふと思い出した。御用納めの朝の電車はどこか余裕ある空気が漂っていた。なんとなく、慌ただしい何かが終わったような気がして、年末は不思議な安堵感のようなものを感じるものなのだろう。これが年始となるといきなり何事もなかったかのように仕事が始まって、一気に慌しさを取り戻す。だからほとんど新年の挨拶のようなものもない。一緒に仕事を進めているフランスのチームもしっかりと休みをとるが、クリスマスの挨拶がわりに新年のあいさつをすると、年明けの会話はスケジュールの話だったりする。そんなものである。

ともかく、2018年こそは明るい一年でありますよう。
May the New Year turn out to be the happiest and the best for you.
Bonne Année
Gelukkig nieuwjaar
Onnellista uutta vuotta 2018

Bonne journée, Cross Cultural

Zhu Bajie

201712-211

新聞の片隅にあった妙な広告が通り過ぎざまに目に入り、思わず立ち止まって確認した。よく見れば「嘘八百」という映画の宣伝だったのだが、薄暗い朝の光の中で動く目から入った信号は、わずかばかり漢字の形状が似ているからか、頭の中で「猪八戒」と変換されたのだ。流石にそんなドラマや映画はないだろうと見返した訳である。三国志の中にあって重要な役割を果たす猪八戒であるが、猪というその姿からしてヒーローの条件を満たしていない。その猪八戒を主人公に映画でも作ればなかなか面白そうではあるが、売れるためにはひと工夫いるだろう。

ところで、猪八戒はなかなかにかわいそうな妖怪であることは、忘れがちである。元々は天上界の水軍だったかを率いる神様であったが、少々女癖が過ぎて地上界に追放される。その際に生まれ変わる先を誤って、人間ではなく豚だか猪だかにしてしまったのだ。確かそんな話である。何もそんなところで間違わなくても良さそうなものだが、物語とはそんなものだ。あぁ、間違った!と後悔したのかどうかはわからない。

朝のまだ薄暗く冷たい空気の中でつまらない見間違いをしたために、妙なことを思い出しながら苦いコーヒーを楽しむことできた。休日の朝はそのくらいがよい。

 

Bonne journée, Cross Cultural

to talk

201710-511(written only in Japanese)

話すことによってではなく聞くことのによってのみ話す行為を終えることができる、それが生きることの宿命でさえある。声を単に発することは話すことではない。聞き手がなければ、唸り声をあげようが哲学を語ろうが同じことである。一方で相手の言うことをうわの空で聞けば、寝ていても同じことである。相手の言うことを聞いてこそ話すことは終えられる。

塩野七生によれば、カエサルは「ひとは見ようとしたものしか見ない」言ったそうだ。一次資料にはあたっていないから真偽のほどはわからないが、少なくともこの言葉はそれを知る以前からずっと、胃の上あたりで疼く違和感のようにまとわりついてきた。特段イヤな言葉とかいったわけではない。ただどこかに上辺だけでも取り繕いたくなる基準となる原器のようなものがあって、それを知らないふりをし続ける鈍い重みのような、小さな悪徳を抱えている気がするだけだ。

見聞きする日常は、当たり前すぎてかえって遠く霞みゆく。

Bonne journée, Cross Cultural

A cheap standard

201710-221

エキゾチックなリゾート写真を見て、いったい何処だろうと写真の隅に書かれた小さな文字を頼りにJag Niwasなるものをgoogle mapで探していたら、地図の真ん中にホテル価格が47306円と現れた。さすがに観光地は高いと思ったら、近くには1117円のホテル。相場がまるでわからない。地図をピンチアウトしてようやく頭の中で情報が結びついた。インド屈指の湖上ホテルではないか。きっと街中には手軽なゲストハウスもあるのだろう。バックパッカーには1117円のホテルも重要な情報である。その日どれだけ安くても居心地の良いホテルに泊まれたかで次の日の行動が変わることもあるからだ。単にコストダウンとかいうことではない。

バックパッキングよりも高級ホテルに泊まるオシャレな旅のほうが嬉しい思うようになって久しいが、たまにこんな値段の差を見たりすると身軽な旅もいいなと思うこともある。少し高いホテルになるとどうしても情報はコンシェルジュからとなる。ロビーやエレベーターで知らない同士挨拶しないわけでもないが、どことなく距離感みたいなものがあって、美味しいイタリアンの店を知りませんかとはなかなか聞きにくい。聞く相手を間違えると「あの人怪しい」なんて思われかねない。その点、小さな安ホテル(ただし真っ当な)だと、いきなり「裏のレストラン行った?安くて美味かったよ。」と聞いてもいないのに情報が入ってきたりする。星が4つもついたらなかなかこうはいかない。その上、仕方なくコンシェルジュに訊ねようものなら妙にスノッブなレストランを紹介されて高くつくことになるのは道理というものである。何しろ変なレストランでも紹介したら、紹介したホテルの品位が問われかねないではないか。

一度、フランスの小さな地方都市で少し高級なレストランの名前を口にしたら、地図を見ながらそれはもう丁寧な案内をされたことがある。旧市街を抜けると近いが道が複雑で迷うからタクシーで行けと危うく電話までされそうだった。何度か来て慣れているから大丈夫だと言って断ったが、きっとインセンティブでもあったに違いない。

当初は汚い表現のタイトルでしたが、あらためました。

201710-222