Bonne journée, Cross Cultural

Zhu Bajie

201712-211

新聞の片隅にあった妙な広告が通り過ぎざまに目に入り、思わず立ち止まって確認した。よく見れば「嘘八百」という映画の宣伝だったのだが、薄暗い朝の光の中で動く目から入った信号は、わずかばかり漢字の形状が似ているからか、頭の中で「猪八戒」と変換されたのだ。流石にそんなドラマや映画はないだろうと見返した訳である。三国志の中にあって重要な役割を果たす猪八戒であるが、猪というその姿からしてヒーローの条件を満たしていない。その猪八戒を主人公に映画でも作ればなかなか面白そうではあるが、売れるためにはひと工夫いるだろう。

ところで、猪八戒はなかなかにかわいそうな妖怪であることは、忘れがちである。元々は天上界の水軍だったかを率いる神様であったが、少々女癖が過ぎて地上界に追放される。その際に生まれ変わる先を誤って、人間ではなく豚だか猪だかにしてしまったのだ。確かそんな話である。何もそんなところで間違わなくても良さそうなものだが、物語とはそんなものだ。あぁ、間違った!と後悔したのかどうかはわからない。

朝のまだ薄暗く冷たい空気の中でつまらない見間違いをしたために、妙なことを思い出しながら苦いコーヒーを楽しむことできた。休日の朝はそのくらいがよい。

 

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Bonne journée, Cross Cultural

to talk

201710-511(written only in Japanese)

話すことによってではなく聞くことのによってのみ話す行為を終えることができる、それが生きることの宿命でさえある。声を単に発することは話すことではない。聞き手がなければ、唸り声をあげようが哲学を語ろうが同じことである。一方で相手の言うことをうわの空で聞けば、寝ていても同じことである。相手の言うことを聞いてこそ話すことは終えられる。

塩野七生によれば、カエサルは「ひとは見ようとしたものしか見ない」言ったそうだ。一次資料にはあたっていないから真偽のほどはわからないが、少なくともこの言葉はそれを知る以前からずっと、胃の上あたりで疼く違和感のようにまとわりついてきた。特段イヤな言葉とかいったわけではない。ただどこかに上辺だけでも取り繕いたくなる基準となる原器のようなものがあって、それを知らないふりをし続ける鈍い重みのような、小さな悪徳を抱えている気がするだけだ。

見聞きする日常は、当たり前すぎてかえって遠く霞みゆく。

Bonne journée, Cross Cultural

A cheap standard

201710-221

エキゾチックなリゾート写真を見て、いったい何処だろうと写真の隅に書かれた小さな文字を頼りにJag Niwasなるものをgoogle mapで探していたら、地図の真ん中にホテル価格が47306円と現れた。さすがに観光地は高いと思ったら、近くには1117円のホテル。相場がまるでわからない。地図をピンチアウトしてようやく頭の中で情報が結びついた。インド屈指の湖上ホテルではないか。きっと街中には手軽なゲストハウスもあるのだろう。バックパッカーには1117円のホテルも重要な情報である。その日どれだけ安くても居心地の良いホテルに泊まれたかで次の日の行動が変わることもあるからだ。単にコストダウンとかいうことではない。

バックパッキングよりも高級ホテルに泊まるオシャレな旅のほうが嬉しい思うようになって久しいが、たまにこんな値段の差を見たりすると身軽な旅もいいなと思うこともある。少し高いホテルになるとどうしても情報はコンシェルジュからとなる。ロビーやエレベーターで知らない同士挨拶しないわけでもないが、どことなく距離感みたいなものがあって、美味しいイタリアンの店を知りませんかとはなかなか聞きにくい。聞く相手を間違えると「あの人怪しい」なんて思われかねない。その点、小さな安ホテル(ただし真っ当な)だと、いきなり「裏のレストラン行った?安くて美味かったよ。」と聞いてもいないのに情報が入ってきたりする。星が4つもついたらなかなかこうはいかない。その上、仕方なくコンシェルジュに訊ねようものなら妙にスノッブなレストランを紹介されて高くつくことになるのは道理というものである。何しろ変なレストランでも紹介したら、紹介したホテルの品位が問われかねないではないか。

一度、フランスの小さな地方都市で少し高級なレストランの名前を口にしたら、地図を見ながらそれはもう丁寧な案内をされたことがある。旧市街を抜けると近いが道が複雑で迷うからタクシーで行けと危うく電話までされそうだった。何度か来て慣れているから大丈夫だと言って断ったが、きっとインセンティブでもあったに違いない。

当初は汚い表現のタイトルでしたが、あらためました。

201710-222

Bonne journée, Cross Cultural, photo panoramique

Being simple

201709-311

The iPhone X team definitely made a great job. Some technical writers who love to quibble on insignificant detail seems to be busy for writing a reason of unsuccessful sales but I believe Apple has showed their philosophy with new products. Even though a enthusiastic supporter would probably find some bad points soon as usual, they must say what’s the matter? It’s a sort of common year festa.
However I’d like to say it lacks the finishing touch. The cut-out at the top and round edge look far from Steve’s clean design for me. It might be an unavoidable result of efficient and beautiful edge-to-edge LCD. Even so, I believe Steve would never say yes.
Being simple is always difficult.

iPhone Xは間違いなく素晴らしいが、ただ一点、ディスプレイ上部の切り欠きだけはどうしても気に入らない。スティーブジョブスなら絶対にOKしなかったのではないかというほどの詰めの甘さを感じてしまう。シンプルであり続けるのは大変に難しい。

 

Bonne journée, Cross Cultural

Bookstores

201709-211

新聞を開けば年に数回は国語力の低下だとか活字離れといったニュースにあたる。先日も自治体の2割に本屋さんがひとつもないという記事があって、前にも読んだような気がするなと「google」した。案の定、2015年の似たような記事がすぐに見つかって、妙な安心感のようなものを感じた。2年経ってもほとんど変わらない内容なら状況が加速はしていないということである。もちろん一方でそれを調べるのにgoogleしたというその習慣は、新聞が報道する状況が加速している可能性も示唆しているということでもあろう。

個人的には、町の書店が減少するのは当然という感覚を持っている。誤解して欲しくないが、本屋という空間が大好きで、なくなったら大変だとも思っている。先日も時々立ち寄っていた近所の書店が閉店となって困ったと食事時の話題にしたし、学生の頃は古書店をハシゴしてみたり信じられないくらい小さな学生街の本屋で数時間を過ごしたりもした。そうやって生活の中にあったはずの街の書店は、しかし輪郭が曖昧になりつつある。旬の野菜と夜食のスイーツを買うためにある食料品店と区別がつきにくい不思議な場所となってしまったのだ。それはそれでもちろん需要もあるだろう。出たばかりの山積みになったツヤツヤとした直方体を早く仕事を切り上げてでも買いたいと急ぎ立ち寄ることもあれば、なんとなく夜の時間をやり過ごすためにぼんやりと雑誌の書架を眺めることもある。ただ、それは毎日の生活そのものではない。新刊と雑誌と参考書だけの書店に毎日立ち寄る理由はなかなか見つからない。であれば、書店が減るのが道理というものだ。

北米でもヨーロッパでも本屋さんが流行っているという話はあまり聞かないから、時代の流れではあろう。店頭にないからと注文すれば待たされるし、時間つぶしならネットかゲームの方がお手軽。数が少ないから偶然の出会いは滅多に訪れない。オンライン書店が街の本屋さんを駆逐したというより、そんな時代という方が正しいのかもしれない。まるで、生息域が狭まった希少動物のようである。森に逃げ込むにも、森は限られている。

 

Bonne journée, Cross Cultural

The Rock

201708-521

The Rock(ロック様)が宇宙空間で “Hey, Siri. Take a selfie” とやっているアップルのコマーシャルでeclipse(日蝕)がどうのこうのと聞こえてくるが、正直アップルらしくないつまらない台詞が入っているなとずっとCMの作りを訝っていた。ジョークとしてはいまひとつだと感じるのは、アップルのコマーシャルは質がある程度保証されているものだという妙な安心感のようなものを常々感じているからでもある。ロック様のファンでもない人にとって、少々唐突な台詞にはそうした安心感が欠けているように思ったのだった。
しかしである。あちこちいつも彷徨うブログの海につかる中、ダリのヒゲのように細長く跳ねた木漏れ日とはるか遠い何かを求めて空を見上げる人々の写真がネットに溢れるのを見るにいたって、ようやく意図に思いあたった。北米は久しぶりの皆既日蝕に大騒ぎだったのだ。もちろん誰もが日蝕に熱狂していたわけではないだろうが、少なくとも誰もが話題にするようなイベントであったことは間違いない。大統領が肉眼で見上げる写真を見れば明らかだ。前回の日本での部分蝕では雲の向こうに肉眼でくっきりと欠けた太陽を見ることができたが、あの晴天ではきっと目を痛めたことだろう。
そんなことを思いながら、ふと気がついた。皆既日蝕や皆既月食の皆既蝕は”total eclipse”、でも満月は”full moon”である。確かに皆既蝕が”full”というのも変だが、この手の表現はある意味言語にある文化みたいなものか。日本でも満月は「満」ちているから同じと言えなくもない。

冒頭の写真は、ヨコハマトリエンナーレから。毎回欠かすことのない巡礼ではあるが、その話は別の機会に。

201708-522