Bonne journée, Cross Cultural

Quick Lunch (2)

201806-311

(This article was written in Japanese)
前回、文章が長すぎたので2回に分けた後編。前編はこちら

さて、その翌々日。少し遅めのランチへと再びフランス人と外に出た。どこまでも透明な空気はカラッと乾燥し、さらに空は青く、強烈な日差しに痛みを感じながらなんとなく件のサンドウィッチ屋の方に向かう。気付けばもうひとり一緒になり、さらにひとり増え、やがて自分以外はフランス語を話しているのだった。知り合いのフランス人がこれはいかんと皆を紹介してはくれたものの、結局は会話はフランス語に落ち着いた。だから、どういったわけでサンドウィッチ屋の手前で道を逸れメキシコ料理に向かう事になったのかはわからない。ただ気付けばタコス屋に皆が入って行く。
西海岸でタコス屋と言えば手軽で安い典型である。初めてのロサンゼルス空港でタコスを食べようしたら、隣のマックは長蛇の列だというのにタコス屋は誰一人いなくて不安になったことがあるが、あれはきっとアメリカ人の少ない時間帯であったからで、本来はマック並みには人が入るものである。日本で言ったらラーメン屋か牛丼屋くらいに庶民派だ。少なくともそう勝手に思っている。だから、昼に手軽に食べるなら悪くない。ところが、前日の夜も豪華なディナーと言うわけでもなく、もう少しそれらしい食事がしたいと思っていたから、ホントはタコス屋よりは歩いて5分ほどのカリフォルニアスタイルのレストランにでも行きたいところだった。2日続けてサンドウィッチ屋というのもなんだが、前日が牛丼屋で今日がラーメン屋くらいのお手軽さには少々飽きていたのだ。店を替えるなら他にあるだろう。
気がつけば、昼食も夕食も、もう4日も建物の中で食事をしていないのだった。もちろんキャンプしていたわけではない。どこまでも深い青空の下、爽やかな外のテーブルのゆったりとした環境で食事をしていたのだから、不平をもらすような状況ではない。風が冷たく日差しが少しばかり強いことに文句を言う輩はまれにいるだろうが、多くの人が羨むような環境と言うべきだろう。それでも、4日も外だとたまには屋内が良い。
2日目であったか、会議でだいぶ遅くなった夜にホテルのレストランで軽く食事でもしようとロビーに向かったのだが、レストラン前のバーカウンターにはすっかりリラックスした数人が、赤や青の間接照明がグラスを輝かせる中、1日の終わりのひとときを思い出深くすべく歓談しているところだった。天井近くのディスプレイにはバスケットボールの試合が映され、アコースティックなロックが周囲を包み込んだ。カトラリーの金属音はむしろその場の雰囲気を盛り上げるための効果音であって、さほど離れていないレセプションも舞台装置の一部となった。そのカウンターとレセプションの間にレストランへとつながるドアはあった。食事には遅い時間だったが何かしら食べるものはあるだろうし、ガラス戸の向こうにはランプが揺らぎ、笑い声も聞こえていた。ライトがガラスに反射してよく見えなかったが、確かに大きなテーブルには5、6人がディナーの最中なのだろう、楽しそうに歓談しているようだった。その向こうをウエイターが通り過ぎて行くのが見える。ひとりだがここで食事でもしよう。そう思ってドアに手をかけた。照明の落とされた落ち着いた空間がガラス越しに見える。テーブルにはランプの揺らめく灯り。そうして、1/3ほどドアを開けた時にふと気付いたのだった。それは、外への扉だったのだと。レストランなど存在していなかった。食事も供するバーがあって、その外にあるテーブルへの出口があっただけなのだ。ランプの置かれた丸テーブルは夜の湿った冷気に包まれながら、その向こうの歩道とホテルを曖昧に切り分けていた。
空腹であればあまり細かいことは気にせず手近なところで食事が出来ればそれで良い、そのレストランの幻影を見た夜と同じようにそんな面倒臭さもあったが、皆が入って行くタコス屋で十分という気にはなっていた。そして少なくともタコス屋にはかろうじて屋根があった。しっかりとビルの1階にあるという点では「かろうじて」という表現は正しくないかもしれないが、例によって、開け放たれたドアは強烈な日差しの降り注ぐ外を区別しようとはしなかった。ともかくやけに背の高いその入り口近くのテーブルで日差しを避けながら、しっかりと夜の分も食事をしておきたかった。その夜は、またしても10時過ぎまで打ち合わせであろうことは、想像に難くない。であればせめて肉と野菜を胃に入れておきたい。そう思っていた。
ところが、いざメニューを見ながらその肉と野菜を選ぼうとすれば、それがどんなものかさっぱり分からない。近くで食べている人を盗み見たところで、ラップされているタコスは中身がよくわからない。
「おまえ、タコスは詳しいか?」
「知るわけないだろう。」
それはそうだ。フランスのタコス屋はフランス語で、日本のタコス屋は日本語で説明されている。しかも、セットで5ドルである。それならいっそ、少しボリューム感のあるブリトーがいい。そうだ、ブリトーならきっと肉もしっかり入っているし、ボリュームもそこそこある。9ドルならそれなりに満足するだろう。そういえば、カリフォルニア・ブリトーなるものが流行りだったのではないか。
もはやそれが何であったか忘れたが、ともかくそれらしいブリトーを頼んで止まり木を確保した。会話はフランス語のままだったし、英語であっても仕事以外にあまり共通の話題もない。ぼんやりと外を見ながら、時折気を遣って英語が混じる会話に曖昧に参加する。先にタコスをオーダーしたフランス人は、はやくも半分を平らげた。程なくして、カウンターの奥と何やら意味不明な会話を大声でしながら、そのブリトーは運ばれて来た。給食のトレイにようやく収まるかどうかのそれは、小さな枕ほどの大きさでずっしりと重かった。やれやれ。タコスにしておけばよかった。

201806-312

 

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Bonne journée, Cross Cultural

Quick Lunch (1)

201806-211(This article was written in Japanese)

数年ぶりにペンキを塗りかえたように妙にテカテカと床のコンクリートを反射するカウンターは、ファストフード店としては幾分背が高く、これといって装飾も注文のヒントにでもなるような写真も見当たらず、店員はただその向こうを右に左に忙しそうに動き回っていた。その店員と客を隔てるカウンターのこちら側で、遅い昼食を少しでも簡単に美味しく摂ろうと、文字ばかりのメニューを睨んでいたのだった。赤地に白のうわべだけポップな文字だけでは、それがどんなものなのか想像が難しい。
仕事での行き先と言えば洗練された都市部がほとんどだから海外出張で食事に困った経験はないが、どう注文したら食べたいものが手に入るかわからず、店員に聞くのは毎度のことである。これがスノッブなレストランなら、食材や調理方法もきっちり黒できめたムッシューが、時に恭しく時に気取って説明してくれるのだろうが、地元の金のないやつが時間を潰しに来るような店では期待できるはずもない。ちょっとおしゃれな値段高めの店であっても所詮はファストフード。手っ取り早く食事するのが目的だから、あまり多くは期待できない。うーんと悩んでいると「こんにちは」とひと言だけは言ってくれたが、大量に並んだ肉と味付けのリストを見ても想像がつかないことには変わらない。仕方なく聞く。
「そのサーモンは辛いの?」
愚問である。しっかりHOTと書いてあるのだか辛いに決まっている。知りたいのは「辛いサーモン」がどんなもので、どんな形で供されるかだ。バーガー屋(と言うかサンドウィッチ屋)なのだから、パンにレタスと辛い味付けのサーモンが挟まっているのだろう。辺りを見回せば近くにほとんど客はいない。唯一近くの席で遅い昼食をとっていると思しき赤いブラウスのスレンダーな女性の前には、どう見てもバンズなどのかけらもない巨大なサラダがあって、全部平らげる頃には夕食になりそうなほどゆっくりとそれをつついている。仕方ないのでボローニャソーセージよりは面白そうなその「辛いサーモン」を頼むことにした。
「で、どのパンにする?」
店員は足元の方を指で示す。気がつけばカウンター下のショーケースには4種類のパンがディスプレイされている。一瞥してブルーチーズを選んだものの、サーモンと合うのかどうかそもそも想像しようもない。
「ハーフサイズでいい?」
もちろん良い。巨大な事は分かっている。隣り合ったカナダはそうでもないのに、カリフォルニアのサイズはまともではない。ひょっとしたら逆に喰われるのではないかと不安になる。
結局はよくわからないままオーダーし、そうやってスリリングな最初の一口を楽しむのがいつもの習わしなのである。フランスあたりで言葉が通じないままタジンなど食べに行こうものなら、通じない会話を楽しみ、予想外の味にワクワクする以外にない。いくらか想像できるだけファストフードは気楽である。
さて、建物から出て(建物の中にあるのはカウンターと先程のサラダに取り掛かる人がいるカウンターだけだ)、外の馬鹿みたいに背の高いカウンターにようやくとまりながら、その怪しいサーモンを待つ。番号札は52番である。この際、何番でも良いのだが、ランダムに渡しているに違いない。見渡せば番号はバラバラである。屋根の代わりに波打ったプラスチックの板が据え付けられ、強烈な日差しが明るくカウンターを照らす。すぐ向こうには歩道と裏通りがあるが、カウンターとその道を隔てるのは透明な厚手のビニールだけである。天気が良いのだから仕切りなど要らなそうだが、その向こう側は寒流からの冷たい風が吹いている。カウンター席はTシャツでも寒くはないが、ビニールの囲いをはずして風が当たれば長袖シャツが欲しくなる。歩道にはみ出したその内とも外ともつかない空間は、大急ぎで遅い昼食をとって仕事に戻るには最適な空間であった。

201806-212

待つと言うほど待つこともなく、そのサンドウィッチはやってきた。予想通り、ハーフサイズでもいつもの日本サイズの倍はある。あとは味がまともである事を祈るばかりである。なにせ、昼休みなどとっくに終わって、できるだけ早く会議に戻らなければならないのである。食べやすい味だと有難い。ふと気付けば、一緒に食べに来たフィンランド人はハーフではなくレギュラーサイズである。こんな量を食べられるのかと聞きたくなったが、やめておく。食べられるのだ。人のことなど気にせず、真剣に食事に向き合うべき時が来たのだ。
そうは言っても心の準備と言うものがある。ひょっとすると巷では作法と呼んでいるかもしれない。先ずは、オマケのポテトチップを食して様子を伺うべきである。その間にさっと周囲を見渡す。かのフィンランド人は、すでに1/4を平らげつつあった。

201806-213

巨大なサンドウィッチを両手にとって、口をめいっぱい開き、後悔などないとばかりに辛いサーモンサンドに食らいついた。食いちぎられた手の中にサンドウィッチは、思いのほか小さくならず、口の中にはトロッとしたアボカドの風味が広がった。そこにはサーモンも何もない。もう一口。やがてチリの辛さとブルーチーズの刺激をアボカドが包みこむ中に、サーモンらしい味が加わって来た。スモークターキーにでもしておけば良かった。そう思うまではあっという間だったが、なかなか経験しない不思議な味も悪くはない。これを旅の醍醐味と言うか否かは人それぞれである。
さて、その不思議な味を半分まで楽しんだところで周囲を見渡せば、フィンランド人はとうにレギュラーサイズを平らげ、同僚は巨大なスムージーと戦っているところだった。どうやらとっとと食事を終えて会議に戻らざる得ない。そう観念すると、食事も不思議と捗った。日本人は食べるのが速いなど、だれが言ったのか。
そもそもフランス人がゆっくりと食べるなど単なる思い込みである。確かに星のつきそうなお洒落なオーベルジュで、大切な誰かと年に幾度もないディナーを楽しむなら別である。ランチだって良い。新しい仕事のパートナーと親交を深めるためにフルコースの食事をゆったりととりながら、アイデアを相談するのもあるだろう。だが、社員食堂でさっとお昼御飯を食べるだけなら時間はかけない。それどころか、家から持ってきたタッパー詰のパスタをさっとつついて食事は終わり。そそくさと車の屋根から自転車を下ろして走りに行ってしまうなど、食事に頓着しないようにすら見える。時と場合を使い分けているのだろう。
結果、フィンランド人とフランス人が巨大サンドウィッチを平らげ、Nokiaのケータイがどうのこうのと盛り上がっていた頃、自分はといえば、ようやく半分を超えてチリ風味のソースがHOTの意味だったのだと悟ったところだった。(続く)

最近はすっかり書くのを忘れていたcross cultural な話を、久しぶり書いたらすっかり長くなってしまったので、今回は前後編に分けることにした。来週もお付き合いいただければ幸いである。

 

Bonne journée, Cross Cultural

Korea, US and then

201804-511

それが紛れもなく人の作った機械であることを主張する様にランディング・ギアがゴトゴトと低く鈍い音をたてながら真っ直ぐな胴の下に突き出される頃、恐らくは着陸時の注意事項を韓国語でアナウンスしていたキャビンアテンダントが、シンプルだが明確な英語で注意を促す。この空港は写真撮影が禁止されており、撮影すれば逮捕されることもあり得ると。窓の外には冬枯れの森といくつにもコピーされたコンクリートのアパートが繰り返し連なる生活感のない大地が、地滑りでも起こしたように傾きながら飛び去り、隣の名も知らないビジネスマンが、落ち着かない様子で背もたれのポケットのハングルで書かれた冊子を取り出してはしまい込む。小さな子供の甲高い鳴き声がひとつ。そうやってふと着陸した機体は大急ぎで速度を落とし、今まですっかり忘れていたとでも言うように、地上にある全てが実物大のものへと引き戻される。タクシングする機体の小さな窓から夕暮れの柔らかなオレンジ色に包まれるその実物大の風景をぼんやりと眺め、明日の仕事を考える。
そうやって天空の曖昧な空間から地上の現実に戻る時、視界の片隅を通り過ぎるカマボコ型の構造物と尖った戦闘機に我にかえるのだ。そもそもこの国はまだ戦争中なのだと。平和そうに見える街の表情に何ら嘘はない。いたって平和なゆったりとした時間の過ぎる夕暮れは、誰もが等しく享受する安心に満ちたひと時であり、その中を轟音を立てて飛び立つ戦闘機に現実味などこれっぽっちも感じない。それでもなお、隣国とは休戦しているだけであって、若者は誰もが兵役に就く。1月、オリンピックに向けて平和ムードが漂う韓国は、平和への期待と長い時が産む反目とのジレンマが内と外にある隣国だった。

それから3ヶ月、どこまでも青く透明な空に落ちていきそうなカリフォルニアにいて、冬季オリンピックのことなどすっかり忘れ軽快な音楽とともに夕日を楽しみながら、韓国系アメリカ人と仕事の話をしていた。サーフボードを抱えすっかりオレンジ色になった波打ち際を車に戻るサーファーには、海を隔てたその先にある国にまで思いを巡らすこともないだろう。まして、それを遠くから眺める自分にも、3ヶ月前の戦闘機など思い出す理由などなかった。それでもその数日前、降り立った空港から仕事への移動の最中、グレーの無機質な塊が港に静かにあることを目の当たりにして、未だ解決していない国際問題が他人事のようにそこにあることを知ったことを思い出した。空母は、まちの風景とは無関係にそこにあった。
時は目まぐるしく過ぎて行く。国境線を跨ぐことに誰も関心を持たない日はいつ来るのか。

201804-512

Bonne journée, Cross Cultural

on the road again

201804-311

Cela rend modeste de voyager. on voit quelle petite place on occupe dans le monde.
Travel makes one modest. You see what a tiny place you occupy in the world.
旅では誰しもが謙虚になる。この世界のほんの僅かな場所にしか自分がないことを旅で見るからだ。
– Gustave Flaubert グスタフ・フロベール

I’m on the road again to California, such a lovely place, such a lonely place.
ふたたびカリフォルニアへの旅の途中。魅力的な乾いた青と寂しさが同居する場所へ。

 

Bonne journée, Cross Cultural, Photo

Cucina Italiana Antonio?

201803-411

先日信号待ちでふと横を見たら、素っ気ないコンクリート打ちっぱなしの壁に文字だけがお店の名前を示すちょっと小ぶりなレストランがあることに気がついた。小雨だったこともあってか、都心のおしゃれなレストランの雰囲気というよりは、地方の街中で昔から続いている地元のレストランというイメージに見えたが、むしろその潔いシンプルさがちょっと古くささがある外観を美しく見せていた。店の名前は Cucina Italiana Antonio、アントニオのイタリアンキッチンである。普通の名前ではあるが、これを見て時々仕事で行くフランスのことを思い出した。
和食、とくに寿司屋は、今や世界中でごく普通のレストランとなったから、街中に行けば多くの和食屋に出くわす事になる。大抵はわざわざフランスで和食を食べようとは思わないから気にする事もないが、その名前がわかりやすくて面白い。Sushi Tokyoのような大袈裟な名前を見かけることすらある。Sushi Tsukiji くらいのほうがまだリアリティがあると言うものである。そう考えると、先ほどのイタリアンは、さしずめ「日本食堂 邦夫(くにお)」と言うことになる。あまり味は期待できそうにない。日本びいきで日本食レストランによく行くフランス人に言わせれば、「この手の名前はまれに大変美味しいこともあるが、ハズレも多い。」だそうである。

正確な事を言えば、レストランの名前は実はアントニオではない。ここには典型的なイタリア人の名前がはいっていたが、念のため別な名前に差し替えさせていただいた。ついでに言えば、邦夫としたのもなんとなくAntonioと語感が似ているからであって、他意はない。この手の話は難しい。ということで、iPhoneに残ったフランスの写真やイタリアンの写真ではなく、春らしい花の写真が冒頭にある。

 

Bonne journée, Cross Cultural

in-flight meals

201802-311

実はANAの機内食にがっかりしている。ネガティヴなことはここには書かないことにしているのだが、どうにも適切な表現が見つからない。批判したい訳ではまったくない。

機内食など食べられれば良いという指摘もあろうかと思う。あの制約の中で暖かいものが出てくるだけラッキーで、味などはなから期待してもいないし、安く移動できればそれで良いと同僚は言う。美味しくなりましたと宣伝する航空会社に対して、にべもない。先のANAは、そうやって一所懸命美味しい機内食を提供している航空会社のひとつである。
先日もウェブを眺めていて、ANAの機内食の記事に行きあたった。その記事のとおり、エコノミークラスでもこれだけ楽しめれば嬉しいと頭の中の理性的な優等生がささやくが、一方で本音がこうも言う。あまり食べたくないな。

9時間を超える長距離便は、どうしても食事をせざるを得ない。飲み物だけで過ごすには少々遠い。だから、フライト直前に何かを食べることにしている。機内食に食欲がわかなくても、少し胃に入ってさえいれば好きなものだけを食べれば良い。このところのフライトでは、機内食を食べたり食べなかったりである。正直、特段美味しいわけでもない機内食だから、フライト前に少しでも食べておいて、機内食は食べたいものだけを選んで食べるようにしているのである。先日利用したアシアナ航空(上の写真)は僅か2時間のフライトに少なめながら暖かい食事が供されて驚いたが、フライト前に軽く食べていたので、結果的にちょうど良い食事ができた。

さて、機内食が美味しくないと感じるのは気圧のせいだという指摘もある。だが、ANAの場合は、個人的には食事の内容が合わないからだと感じている。くだんの記事では海の幸丼かカレーが選べるとある。前回の長距離では、シーフードドリアだったかとカレーだったと記憶している。まるでコンビニ弁当である。その上、喉の奥にスパイスの風味が残るカレーを10時間も拘束されるフライトの最初に食べたくはない。結局、サラダのような冷たいものを食べて終わりである。ひょっとして、会議室で試食してOKを出しているのではないかとため息をついたりする。

201802-312そんな機内食がだめだと言っている訳ではない。ネガティヴに見えてしまうが、それは私の文章を書く能力が足りないだけだ。嫌いなものを避けても少しは食べられるバリエーションもあるし、見た目も悪くない。塩と胡椒の省略に日々の工夫を感じるし、多くの人が無難に食べられるであろう味付けにもなっている。塩気とアミノ酸が少々強すぎるコンビニの味を感じるのは、その工夫の結果なのだろう。だが、そんな味を食べたくはない。

デザートも然りである。ANAのエコノミークラスでは、食事の後にハーゲンダッツのミニカップが供される。多くの人にとって嬉しいデザートである。でも、これがまた時に食べたくない代物となる。困って受け取らないこともしばしばだ。出てくるアイスクリームは、例外なくコンクリートのように固まっている。プラスチックのスプーンでは到底歯が立たない。美味しく食べたかったら30分ほど待ったほうが良い。ところが、食べやすくなった頃にはコーヒーはない。結局、片付けで忙しくしている客室乗務員にコーヒーを頼むことになる。なんだか、ゆっくりとできないのである。コーヒーなど飲まなければ良いのだろうが、後に残るミルクの甘みがどうしても好きになれないし、まわりを見ればとっくに食事は終わっている。結局は、アイスクリームを断ってしまうのが一番簡単ということになる。

まぁ、ビジネスクラスにすれば良いのだろう。食べたい時に食事が出来るし、少しは味も良い。もっとも、ビジネスクラスではゆったりとしたシートでほとんど寝ている訳で、あまり食事を楽しみにする理由はない。何年か前のパリから東京への帰りでは、よほど疲れていたのか飛びたって程なく眠りにつき、気がついた時にはもはや日本海が目の前だったくらいである。とは言え、そもそもビジネスクラスの料金をプライベートで払えるほど金銭的な余裕はない。コストにシビアな仕事でもなかなか使えるものでもない。どの辺りが「ビジネス」なのかと愚痴も言いたくなる。

食べ残した機内食もアイスクリームももったいない。事前予約制にならないかなと思う。それってLCCか。でもシートピッチは譲れない。

 

 

 

Bonne journée, Cross Cultural

South Korea

201802-112

ユニクロの明るくカラフルな店舗の前を重い荷物を背負ってゆっくりと進みながら、ふと今日は暖かいなと思い返した。視線の先を横切る涼しげな顔立ちのカップルは、モノトーンの上下にコートの前を開け、何かを笑顔で話しながら颯爽と立ち去った。ショッピングモールの入口近くにある黒を基調にブラスで飾ったパン屋あたりで、きっとお洒落なサンドイッチでも買うのだろうと勝手な想像を膨らませ、背中の重さから解放してくれる近くのベンチを探す。目隠しを兼ねた植込みの向こうに見つけたステンレスのそれは、すぐに腰の曲がった女性のものとなった。レストラン街でもあればそこで休憩しようと辺りを見渡した。見わたせばいつもと変わらない風景がそこにあった。ただひとつ違うのは、書かれた文字が何ひとつ読めないことだけだった。行き先を示す案内板には、ハングル文字が書かれていた。

空港のエスカレーターは韓国語に続いて中国語と日本語が安全を喚起し、案内板にはカタカナが併記されていたが、ひとたび空港を離れれば右も左もハングルだった。表音文字なのだからしっかり勉強してくればよかったと少しだけ後悔し、すぐに読めても意味がないことに気がついた。右の矢印と左の矢印から、左右に行くと何かがあるのだとはわかっても、そこに書かれたハングルの音からはそれが何か分からない。全てが文字化けしたような、そんな気分を味わうこととなった。風景は見慣れているのに、文字だけが分からないのだった。よほどフランスのほうが楽だった。分からなくても英語と似た単語であれば、それなりに意味は想像できる。しかし、ハングルには何ひとつ想像できる要素がなかった。だから自分の頭がおかしくなったと思う方がかえって自然に思われた。見慣れた日本の風景なのに、ただ文字だけが読めなくなったのだ。あえてひとつだけ違うとすれば、ユニクロがひとけた値段の高い高級品に見えたことだけだ。29,000-のブラウスは、やけにオシャレに輝いていた。もちろん単位はウォンである。

201802-111