Bonne journée

le carré (3)

 

201707-311

「写真撮ってたから本屋の時間でもメモしてるのかと思ったよ。こんな朝早くに本屋に用はないよなぁ。」魚は半分になったクロワッサンにかじりついた。「コーヒー飲んでくか?フランスのカフェと同じだ。クロワッサンならある。」
スマートフォンがまたバッグの奥でモゴモゴと何かを告げた。取り出そうと右肩にかけたバッグに顔を向けて、本屋の名前を思い出した。”librairie le carré” 四角という名の本屋。かつてSNSで送られてきた写真のレストランと同じ名前。どこかはわからない。ただパリの郊外とだけ。郊外であろうが、バスティーユであろうがサンジェルマンデプレだろうがどれでも同じだった。ただはるか遠いどこか。スマートフォンを包む両手の指先の隙間から文字がこぼれ落ち、ガラス板の上のみせかけのレストランテーブルはくすんだ茶色に霞んでいた。棚に置かれた陶器のねじれた花瓶と黒檀のように沈み込む象の置物が場違いに見えた。

広げた透明のうしろ翅に
夏を探して伸びる葉脈の影
振動する空気と見えない羽音
はっきりしない陽光に割り込む
他人の手と着信音
どこかに隠れる赤茶けた虫

四角という名の本屋の黒板にくくりつけられた小箱には、誰かが放り込んだ名刺大のカードが朝露に歪んでねじ曲がっていた。朝露が染み込んでグレーの縁取りとなった白い平面のその中にアリのような小さな丸いブルーの文字で書き込まれたメッセージには、イリスとあった。きっと名前だろうと思った。レストランの写真と同じ。ただ入り口にle carréと書かれていたからきっとそのレストランの名前なのだろうと。そうやってそのレストランは「四角」となってずっとガラス板の奥に沈みこんだ。
「電車はしばらく動かないよ。コーヒーでも飲んできなよ。」
魚がカップを持った手で駅の方を示す。無理にでも仕事に向かおうとしている自分が遠く見えた。
「フランス好きでしょう?ビグダンの女の子のチャーム着けてるんだから。あいにくキャラメルはないけど。クロワッサンならある。」
四角という名の本屋の横にある木の階段は、クリーム色のペンキが剥げた灰色の道標に見えた。何年も誰かを案内し続けた道標は、ガラス板の中に折りたたまれた地図を誰かが広げるたび、クリーム色の皮膚を少しづつ剥がし、やがて朝の街に倒されたのだ。その倒された道標が示していた行き先は、今はもう誰もが気に留めなくなったどこかであって、そのどこか分からない行き先に何人たどり着いたかなど誰も考えることもない。クリーム色の皮膚とともにその行き先を告げた文字は、そうやって街の片隅に吹き溜まったかけらの一部となったに違いない。コーヒーの甘い香りがほのかにした。右足の先をクリーム色の木片にかけてテラスを見上げた。ビグダンが何か知らないと思い出した。
茶色の革の靴先が階段にの上で歪む頃、再びSNSが何かを呟いた。フランスからのメッセージ。深夜0時。
「マスター、コーヒーとパン」どこからか誰かが空に向かって声を上げた。
「パンじゃないって言ってるだろう。」そう応えながら空のコーヒーカップを持って腰を上げた主人は、半身だけ振り返りながら小声で続ける。「きっとあんたの方がマシだと思ったんだけどね。」
客は慣れたように角のテーブルに座り、頭だけがプランターの向こうで揺れていた。
「電車止まったんだから朝のパンくらい食べてってもいいよね。」
遠くで顔の無い誰かがつぶやき、その言い訳は、カラカラと音をたてて転がった。
「電車止まらなくたって食べていいんだ。ただ、あんたがいつも食べてるのはクロワッサンでパンじゃない。」
半分階段にかけた足をアスファルトに戻し、プロジェクターに映る説明資料を思い出した。まだ映し出したことのないスライドが鮮明に思い浮かんだ。ただ、そのスライドの右隅には見慣れたエッフェル塔があった。
「マスター、クロワッサン。」
会社には遅れるとメッセージを送らなければ。たぶん。
斜めの日差しがビルの隙間にある緑色のウッドテラスの半分を音もなく照らし始めていた。
ガラス板の向こうには動かなくなったコガネムシが黒く光っていた。


le carré(1)le carré(2)、に続く最終回。全文はこちら

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Bonne journée

le carré (2)

201707-111

頰にまとわりつく湿った風は時に北からの硬い冷気と入れ替わり、すっきりとしない翌朝には再び柔らかな湿気を運ぶ。デスクワークで凝り固まった両肩に、どこか湿った重さを与え続ける重いジャケットが要らなくなった朝にシジュウカラがもう一度何かを思い出した。
翌週には片付けなければならない今日と、今日をやり過ごすための明日と、延々と続いた昨日のあとの今日が同じ時間を共有していた。もう、半年もからっぽのSNSには、色褪せることのないエッフェル塔の写真がずっとあった。もう見飽きたその写真は、それでもずっとそこにあった。あと5分で着く駅よりも、通勤電車で向かう仕事場よりも、エッフェル塔はずっと確かにそこにあった。昨日の夜、ベッドに体を投げ出しながら見た時から何も変わっていなければ、エッフェル塔は確かにそこにあるはずだった。確かめる必要はないと誰かがずっと頭の中でつぶやいていた。
「もう少しお待ちください。幸せはただいま準備中です。」
街中の掲示板もまた、視点の定まらない死んだような目でどこでもない場所に独り言を呟いていた。脚急ぐ誰もがそれに気づかず、今と此処の区別の付かなくなった都心の巡礼者はそれを見ようとはしなかった。黒板に書かれた文字は、かすれ落ちた黄色のチョークの粉とまだ低い日の光のオレンジに少しだけ曖昧に見えた。誰もが気づかず誰もが見ようとしない白っぽい文字に眼を向けるのはひとりだけなのかもしれないと思った。
何のためなのか理由は分からない。ただスマートフォンの背を黒板に向けて写真を撮ろうとした。作りものの嘘だらけのシャッター音が鳴るよりも早く、SNSがメッセージを告げた。
「電車止まってる。遅刻しそう。」
今日の会議はひとりになりそうだと思い、いつもと同じだと思い返した。会議室の中が薄暗くなり、プロジェクターのファンの音が気になりだした頃、顔は曖昧になった。
黒板にもう一度カメラを向け、朝の数秒がスマートフォンに吸い込まれる。初めて気づいた黒板のメッセージも、ルーティンワークのように繰り返す写真の行為の中でいつか過去となる。取り出すことも消し去る事も簡単なメッセージを写し取っただけの写真は、やがて見つけることすら難しいビットの羅列となってどこかに溜まった埃のように見ないものとなる。それが、世間が分かったかのように振る舞いたがる誰かが声を張り上げて言うテクノロジーなのだ。
黒板の写真を確かめ、スマートフォンをバッグの奥にしまい込んだ。
「いかれた本屋に用事?午後にならないと開かないよ。」
顔を上げると、黒板の向こうで一段高くなったウッドテラスから魚のような顔をした誰かが見ていた。色黒で細長い顔の下にはあまり手入れをしていそうにない髭がぼんやりとついていた。魚は丸テーブルのコーヒーをひと口飲んでからクロワッサンにかじりつき、再びコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「午後にならないと開かないんだよ。午前中は公園で本読んでるから。何探してるか知らないけど、昼過ぎにおいで。」
そう言われて黒板の文字が本屋の奥まった入り口への案内なのだと気づいた。そこに本屋があることはずっと分かっていたはずだったが、もう何年も記憶のどこかが欠けてしまったように意識すらしていなかった。もしかすると見ることまでも忘れていたのかもしれなかった。背の低い焦げ茶色の木塀と小さな椅子がほんの少し奥の緑色のドアへの道を知らせていた。錆びついた釘のように頑なに死んだドアが、石を埋め込んだコンクリートの道の向こう側で壁となり、穿たれた丸い磨りガラスの窓だけがわずかにドアの向こう側があることを知らせた。


le carré(ルカレ)の2回目。Cafe Everestを含む連作を意図しているのだが、いささか怪しいところが見え隠れしてしまっている。このため次回分は書き換え中。果たして意図するものができるのか、不安である。

Bonne journée

le carré (1)

201706-311

丘と呼ぶには大げさな少しばかり周囲より高くなったその場所の坂の上から見下ろす線路は、光があたって茶色く変色した印画紙にわずかに残された顔の輪郭をたどるように曖昧な線を描きながら、低地の向こう側の白茶けたビジネス街といくらか木の匂いのするこちら側の宅地とを隔てる境界となっていた。子午線が目に見えるものならそうだろうと思わせるような唐突なその線は、向こう側にある欺瞞を今ここにある気怠さから切り分けた。
シジュウカラの3度繰り返す甲高い声が頭のてっぺんから突き刺さり、SNSがブルブルと不平を漏らす。再び始まる今日。気怠さをあらわす傲慢な線。
昨日のうちに出来上がった薄茶色の報告書よりも端が折れ曲がった会議室のスクリーンが気になって仕方のない誰かが、今日の会議が無意味であることを淡々と告げたらどうだろうと坂の下の駅に向かってため息をつく。もう一度、ブルブルとバッグの中で何かが蠢いた。青がぢっと息を殺しながら溶けていった夜が、再びめぐってきた朝の喧騒を逃れるように、バッグの中で呟いていた。何かを取り出そうとは思わなかった。
「本日もご利用ありがとうございます。」
あとほんの少し坂を下ればすぐ先にある駅。まだ、ずっと前から、もう少し、駅はそこにあるだろう。誰もが線の向こう側に行くために吸い取られるように無言で向かう駅は、いつもと変わらない能天気さで言葉を覚えたばかりのインコのように同じ言葉を繰り返す。
「本日もご利用ありがとうございます。」
誰もが乗りたがってなどいないあなたのためにある電車が、どこまでも薄茶色に滲んでいく朝、言葉は繰り返される。
「では、失敗の原因について追記の上、再報告してください。」
誰もが無意味だと知っている。ただ言わないだけだ。言わなければただ薄茶色の時間が過ぎて、今日は昨日となる。ようやく歩き出した茶色の靴の向こうで雲が動き、境界線の薄茶色の縁取りはどこかで今日と明日をも区別しようとしていた。
「今日は朝一番で報告しなければ。」
頭の中で面倒なルーティンを反芻するのはいつからの癖なのかと思う。
ざわざわ、ザワザワ、ざわざわ。
ふと道路脇のアーモンドの木を見上げ、昨夜の強風に飛ばされたプラスチックバッグの湿ったにおいを思い出した。怠惰と気まぐれな風との間に置き去りにされた青いビニールのカケラは、シジュウカラが忙しくつつく花芯の下で微かに音を立てていた。
駅裏に向かう路地の狭い階段を下りながらスマートフォンをバッグから引き摺り出し、白く小さな点で描かれたメッセージを確かめる。いつも繰り返すルーティンは、いつもと同じエッフェル塔の写真だけが染み込んだガラス板の上で電車の遅延を知らせていた。


Cafe Everestからしばらく時間があいた。構想からすればまだまだ出だしだが、そもそも書こうと思わないからひどく進まない。だから、ともかく後にしようと思っていた2番目の散文詩の冒頭部分を先にポストして、いくらか自分にプレッシャーをかけようという魂胆である。le carré(ルカレ)は少し馴染みのない単語かもしれないが、日本でも案外いろんなところで見かけている。ただ、le carréが出てくるのは次回。また間が空きそうだがお付き合いいただければ幸いである。

Bonne journée, Photo

Cafe Everest 4


201702-111

時は過ぎるのではなく、
いつも同じように繰り返し刻まれるもの。
時は流れるのではなく、
いつも同じ方向に繰り返し過ぎ行くもの。
昨日と今日を分け隔てるカフェのテーブルは、今そこで目に見えないほどのかすかな傷として新たな時を刻み、
プロジェクターが放つ光子の放列は、ハードディスクの上の磁気のゆらぎとして今日の証を刻む。
遠くどこかで上げられた象の足は、次に下ろされた大地にわずかな足跡を残し、
時と場所を隔ててキースジャレットのピアノと共に、カフェの汚れた空気を震わせる。
テーブルの傷は、やがて次の汚れに紛れ、
ハードディスクの磁気はやがて明日の議事録共にどこにもない場所に押し込まれる。
繰り返し刻まれる時の風化。繰り返し過ぎ行く時の記憶。なんども繰り返し過ぎた時間だけが象の歩む道のように現れる。

見慣れないネパール料理をひとくちだけ味わい、バッグの奥のスマートフォンを探し出し、象の置物に目をやって、明日の乾いた空気を吸い込んだ。
LEDが反射するガラスの板には、無数の指紋ともう3週間待っていたメールの2行の欠けらがあった。23時の便でこぼれ続ける明日を拾いにパリ行くと。ナポレオンが過ぎた門もガラスと鉄の屋根もジュラルミンの羽音も、いつまでもセピア色が街を覆い続けるのが慣わし。余所者がそのセピア色を塗り替えるのもまた慣わし。進んでいるのか留まっているのか分からなくなったパリの仕事のパートナーへの愚痴は、9か月続いたある日の夜に急によそよそしく違う話題へと変わり、やがて黙りこくった3週間が訪れた。しばらく連絡できないと。スマートフォンをバッグの底に隠すようにしまい込み、少し冷えたコーヒーを自分のどこかにあるはずの胃に押し込んだ。
会計を済ませ、冷たい夜への出口をこじ開けると、足元に貼り紙が落ちた。「あなたはここから入りません。」確かにそうあった。今日と明日の境界線は象の足跡のように曖昧にぼんやりと消えつつあった。


最後の部分がどうしても思い通りにならず、すっかり時間が開いてしまった。付き合っていただいた読者の方も、もはや全体像が分からないだろうから各回へのリンクを貼ろうと思ったが、前半部分にもすでに僅かな修正を加えてしまっている。そんな状況だから新しいページ(Cafe Everet)を用意してみた。できることなら最初から再読して、辛辣なコメントでもいただければ幸いである。ひとりよがりな仕掛けも、この後に構想している続きも、生み出すのが思いのほか苦しい全体のなかの一部。たとえアクセスログの小さな数字でも大きなモチベーションにつながるに違いない。

Bonne journée, Photo

Cafe Everest 3

201612-211

限りなく細く研ぎ澄まされたブラッドオレンジの月が、
ガラスに刻まれた空間の向こう側でコンクリートの間隙へと沈み込んでいった。
断絶された煤けた時刻は、
凍りついた沈黙の中で微かに鼓動するだけだった。

もう長い間、月をじっくり眺めたことなどない。急ぎ足で駅に向かい、滑り込んできた電車のドアに考える余裕もなく吸い込まれ、ようやくつり革を確保するとスマートフォンでメッセージを確認する。そうやって始まった1日は、ビルの明かりに照らされた谷間を小走りに駅に向かう事で、ようやく終わりにたどり着いた。仕事の仲間とあれほど楽しそうに話しても、一度ビルを出ればすれ違う夜の人影と対して違いはなかった。
「ネパール料理ってどんなのが?」
そう言いかけて、目をコーヒーに戻し、出かかった言葉はどこかに霧散した。印刷したばかりの新聞に湿ったインクの匂いがまだ残っているように、時間だけが過ぎた会議室を後にしてもプロジェクターの埃が焼けるような匂いが鼻に残った。新しいことで胃を満たすのは次にしようと思った。向かいの椅子の上のバッグの中で、スマートフォンが小さく唸るのが聞こえた。
エベレスト・カフェのスピーカーからはジャズが流れ、片隅の観葉植物はエベレストとは無縁な熱帯の青々としたシダ植物を思わせた。飾り棚には木彫りの猿と象。そして様々な色の布。あらゆるものがこの小さなガラスの箱の中で場所を奪い合っている。そのひとつに自分が加わったのだった。壊れそうなキースジャレットのピアノが背中の方で冷たく舞った。灰色のダクトから押し出された空調の風が赤と黄色と緑の布を揺らし、その隣でありもしないどこかに向かってすっと広がった植物の葉が震えた。
「食べなければ、美味しくないのがわからない。運がなければ、美味しいのがわからない。」
店員がピアノを押しのけるように写真を差し出した。写真の横には小さな捻じ曲がった黒い文字でモモとあった。食べてみなければその美味しさはわからないのだと言いたいに違いない。そう思ったが、言葉を訂正するのはやめた。そんな必要はなかった。代わりに聞く。

「あの壁の棚にある象の置物は何?」
「木の象。お客さんのお土産。」
「インドの旅行のお土産?」
「インドは関係ない。」
「どこのお土産?」
「フランス。」
「そう。」

木を彫った象は天井のLEDライトを反射して黒く輝き、手作業の不規則な削り溝と光沢のある面がさざなみを作っていた。象はまたも鼻を持ち上げてから向こうを向いた。再びバッグの底に押し込められたスマートフォンが小さな呻き声をあげた。
別なプロジェクトの進み具合を話しながら会議室を後にする参加者の背中が視界から消えると、そこには空調の騒音が残された。小さなハム音の中にかすかに金属音が混じるそのノイズは、どこか長時間乗った飛行機の騒音に似ていると思った。テーブルの上のスマートフォンが鳴り、誰かが明日の会議の延期を告げた。オフにしたプロジェクターが冷却のためにファンを回し続ける。そのいつ終わるかわからない冷却を待ちながら、もう半年も会っていない友人の顔を思い出した時、生暖かい埃を吐き出すファンの音は唐突に終わりを告げた。
「木彫りの象がフランスのお土産なの?」
店員は答える前に頼んでもいない写真にあった料理の皿を差し出した。
「疲れてる。少しだけサービス。あなたは運がある。」
テーブルの上でネパールがこちらを見ていた。ふと、ネパールの旗がどんなだったか想像も出来ないことに気付いた。風景すら思い付かなかった。
両手のひらを広げてできるだけ多くをすくい取ろうと、じっと息を凝らしながら降りそそぐ雨粒を受け止め、やがて指の隙間から溢れる雨の多さに指を固くする。それでもわずかにしか雨は手に残らない。パウルクレーの描く線のように行為は単純化され、プロコフィエフの紡ぐ音のように牧歌的な繰り返しとなる。そうやって、時計の針が止まることなく回り続けるのを受け止めることができた。ネパールの山々から吹き下ろす冷たい風は、頭の中で断片化されたジグソーパズルのピースをかき集めた想像でしかなかった。手のひらに残された雨粒と同じだった。自分がどのドアの前に立っているのかすら分かっていないと、知らない誰かに言われたような気がした。ただドアの前に立って、無言で空気を吸って吐いているだけなのかもしれなかった。

フランス土産の木彫りの象はまだ壁の飾り棚にあった。


今週で最初の章を終えるつもりだったが、もう1回必要らしい。次がいつになるのかはまだ未定である。
初回
前回

Bonne journée, Photo

Cafe Everest 2

201611-411

凍りついたように音のない階段に
かかとの音がコツンと鳴ったような気がして、
足元のアスファルトを急いで覗き込み、
何もない事に居心地の悪さを感じた。

一段と暗くなった夕暮れに所在が分からなくなった貼り紙のように、誰かを待つ少年もまた見えなくなった。見にくくなったプロジェクタの資料を少しでも見てもらおうと部屋の明かりを落とした瞬間から、伝えようとした相手の表情が無くなった会議室と同じだった。

「コトラーは知っているか?」

もちろん知っている。だが、知っていることにどんな意味があるのかはわからない、そう頭のてっぺんで思った。やがて会議室は曖昧な蒼の深みとなった。階段をひとつ登る。コツンと冷たい音。果たして向かおうとしている先がエベレスト・カフェなのか、別な場所なのか、それすらはっきりしなかった。ただ一度も入ったことのないそこで、コーヒーを飲みながら今日と明日の境界線をなぞりたいとだけ思っていた。また、コツンと音がした。
少し長い階段を上がった先には、思いがけずエベレストカフェのオレンジ色のサインが階段の手すりを照らしていた。明日はまた報告書を直さなければと、誰かが頭の中で囁いた。
ドアを開ける。ガラスのドアに張り付いた木のドアノブは、触れるとプラスチックの手触りがした。

「こんばんは。ひとりだけですか?好きな場所へどうぞ。」

少したどたどしいイントネーションでカフェの店員が出迎えた。ネパールの民族衣裳なのか判断できるだけの知識はなかったが、ビビッドな色の中にこちらを向く笑顔にそんな気がした。

「ドアは壊れました。あなたは入りません。エレベーターごめんなさい。」

近くのテーブル席の安っぽい椅子に身を委ねながら、肩にかけた重いバッグを隣の席に置き、立てかけられたプラスチックのメニューに手を伸ばす。
コーヒーをひとつ。ろくに見もせずそう告げて、メニューを裏返した。裏には小さな茶色の文字が無造作に引かれた青い矩形に囲まれていた。

大気の重みに両肩は耐えきれず、
宇宙どころか街角の空間に矮小化されながら、
あなたはゾウに踏みつけられた蟻となる。

踏みつけられながら、
ビルの空気をかろうじて循環させるコンプレッサーが
ブツブツと不平を言うのを聞いている。

かろうじて難を逃れた他の蟻は、
嘲笑っているわけでもない。
無言で空気を吸って吐いているだけだ。

「それはね、お客さんが書いた。私は意味がわからない。」店員は遠くからそう話しかけてきた。
遠い未だ見ぬインドの記憶。やがてゾウはその古代遺跡のように輝く足を上げる。何ひとつ変わらない大気と光。想像だけのインドが象の影となって天井に照らされていた。

「出身はネパール?それともインド?」

言葉が放たれると同時にどうでもよい質問のような気がした。出会ったばかりの店員は、明日になれば単なる記号でしかない。コーヒーを頼んで支払いするだけの記号。その記号に出身地は不要なのだ。

「ネパールですよ。おかあさんがね。どうしてインド?インドは関係ない。」

プラスチックのメニューに書かれたゾウにインドを思ったのは、身勝手な想像だと言われたような気がした。象は鼻を持ち上げてから向こうを向いた。

「仕事の帰り?お腹空くでしょ。ネパール料理あるよ。」

コーヒーをテーブルにゆっくりと置きながら、店員は再び笑顔を見せた。どうということのない花柄のカップの向こう側で引っかいたような傷がオレンジ色の明かりに照らされ、誰の重みも受け取らない向かい側の椅子は、奥のガラス窓の影で冷たくなっている。茶色の皮のバッグに穿たれた皺は、もはや光の反射の揺らぎと区別がつかなかった。明日もまた繰り返すはずの時間がどこかで溢れ始めた。
ネパール料理なんて食べたことがない。そもそもどんなものかわからない。だったら試してみろと頭の中で誰かが告げていた。

バッグの奥にしまい込んだ何かを取り出そうと、
誰もいない椅子から茶色に歪んだそれを手繰り寄せ、
明日の通勤電車の湿った吊り革を思い、
取り出すものなどないと思い出した。


10月のポストの続きである。また気が向けば続きを書きたい。
Here’s a prose poem in Japanese continued with the post in 23 October.

201611-412